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旅
一人旅が趣味だった。ローカル鉄道に乗って、秘境の絶景を見に行く旅。ターコイズブルーの美しい、穴場の砂浜で過ごす旅。登山をして、雲の上から夜景を眺める旅。ほかにもいろいろなところへ旅をした。その旅の人生も、今日で最後になる。齢70歳にして、体力の限界を感じ始めたのだ。昨年の秋、紅葉の美しい山へと旅しにいった時のことだった。久々に長く歩く旅だったからか、酷く疲れを感じていた。山道を征く人々から浴びせられる、好奇と心配の視線。そうか、私はもう、かなり歳がいってしまっていたのか。そう、気付かされたのだ。それに加えて、60歳で定年退職をしてから年金で暮らしていたが、こうも旅ばかりをしていると、有限なものは尽きてしまうことに気付いたのだ。幸か不幸か、ずっと独り身で親と兄弟には既に先立たれていたために、己のものは、すべて己のために使えていた。だが、それも今回で終わりだ。この旅で最後にして、今後は粛々と生活していこう、そう誓ったのだった。
記念すべき最後の旅に選んだのは、初めて一人旅に征った、とある湿地だった。今はもうどうなっているかわからない。50年以上の前の出来事になる。高校時代からずっと行きたいと思っていた一人旅。その許可を高校卒業と同時に、親にもらったのだ。意気揚々と、自分の行きたいところを近くの書店の雑誌で調べた。その頃はパソコンなんて持つことはできなかったため、紙媒体で調べ上げたのだった。そこで見つけたのが、今向かっている湿地だった。その当時、未だカラー写真は高価なものだったため、雑誌に載っていた写真は白黒写真だった。だが、なぜかその写真の風景に心引かれたのだ。写真に写っていたのは、奥に林が見え、手前には池と草がある。そんなありきたりなものだった。別段特集されているわけでも無く、小さく記事と写真が載っていただけだった。だが、心に深く残ったのだった。場所もさほど遠くなく、初めての一人旅にちょうど良い場所だった。
調べてから数日後、私は初めての一人旅に出た。今でもその当時の心境は容易く思い出せる。どんなところかな、美しい景色が広がっているんだろうな。そんなことを考えて、楽しみにしていた。その場所へは単線一車両しか無い電車で向かう。最寄り駅で降りると、そこから40分ほど歩いたところにあるのだった。疲れなど知らず、電車を降りた私はひたすらに歩き続けた。30分ほど経ったところで、その湿地への看板らしきものが建っているのを見つけた。木に直接、場所の名前が彫ってあるようだ。木は朽ち果てていて、文字を読み取ることはできなかった。触れば崩れてしまいそうな、脆さを感じた。ふと、辺りを見回す。当たり前のように人は居らず、ただ静寂がそこに居た。一人は気楽だな、そう思いながら再び歩みを進めた。
それからしばらくすると、目的の場所へと至った。恐らく、誰が見ようと同じ感想が出てくるだろう。「なんだ、なにもないじゃないか。」と。だが、私はそれを見たとき、こう思ったのだった。「なにもない、なんて素敵なんだ。」と。何もないことに、価値があった。そこに何か要素が加われば、この良さはすぐさま崩れてしまうだろう。奥に見える針葉樹の林。池の水は少し濁っているが、太陽の光を反射して煌めいている。青々と茂った低草は、風に吹かれて揺れている。ただそれだけのことに、意味があった。私があの小さな写真を見て抱いたのは、この感情だったのだと、そのときわかった。
あれから50年。あの場所はどうなっているだろうか。今では複線二車両まで増えた電車に揺られながら最寄り駅に付くのをゆったりと待っていた。車窓から見える景色は、あの頃と大分変わり、灰色が増えたように感じた。すこし、私の中に残る情景を穢された感じがしたが、時代の変遷には逆らえないだろう、そう思って視線を車内に戻した。あのときと違い、人で賑わっている。大人から子供まで、たくさんの人が居た。家族連れが多い印象だ。この先に何かあるのかしらと、ぼんやりと考えていた。目的の駅へと着く。電車を降りるとそこには昔とは違い、発展した駅があった。違いに戸惑いつつも、駅の中を進んだ。駅の構内にはたくさんの鶴が飾ってあった。何か催し事でもあるのかしら、と鶴が脇にある道で、ゆっくりと歩みを進めていく。ずいぶんと歩くのも遅くなった。外へ出ると、そこには舗装された道があった。あぁ、変わってしまったのか。少しだけ私は落胆した。だが、時代が変われば景色も、環境も変わるものだ。仕方ないと思いつつ、先へと歩みを進めていった。なにやらバスが出ていたが、方角はわかっているのでその方向へと徒歩で進んでいった。一時間ほど歩いただろうか。少しずつ、体に疲れが出始めた。歩くのが遅くなったからか、前よりも時間がかかっていた。前をむくような余裕も無く、足下を見ながら進んでいく。あの日のように、歩いている人は居なかった。ただ違うのは、横を通り過ぎていく車両の存在だ。心に募っていく悲しみを抱えながら、私は何も考えずに歩いていた。
それからしばらく経って、声をかけられた。顔を少しだけ上げると、心配そうにこちらを見つめる若い男女がいた。どうしたのだろうか、なんですか、とゆっくりと尋ねる。女の方が答えた。どこに向かっているんですか、と。私は、悲しげに答える。野木崎です、今はもう無いと思いますが、と。女の人はなぜか笑った。なんて失礼な子なのか、そうおもって怒りの声を上げようとする。そのとき、男の方が答えた。おばあちゃん、野木崎は、目の前にあるじゃないか、と。私は顔を前へと向けた。
そこには、あの日と変わらない、あの湿地が広がっていたのだ。あの日と同じ、青々と茂る草と、少し濁った池。奥に見える針葉樹の林が、50年の時を超えてそこに現れたかのようだった。声にならない感情が、口から漏れ出す。それは心から顔へと上がってきた。そのまま昇り続けて、涙となって、表へと昇華された。心配そうに男女が見てくるが、私は、大丈夫よ、と言って、一歩前へと出た。変化ももちろんあった。そこには数え切れないほどの千羽鶴があった。少し前に鶴を放した時から、鶴がよく育ってほしい、繁殖してほしいという願いを込めておかれたらしい。その影響で多くの観光客が集まるようになり、『千羽鶴の池』として有名になったそうだ。変わってしまった。でも変わらない風景は、私の心に深く残った。何も無くても素敵な場所に、素敵なものが増えたら、より素敵になるのね、と私は呟く。この情景は、今までの旅の中で格別に素敵で美しい、そして、変えられないものであったことを確信した。
旅から帰宅した私は、本を書くことにした。私が旅に行った場所をまとめた本だ。写真を撮り始めたのは30歳を過ぎてからだったが、今日までずっと白黒で撮り続けた。カラーでは伝わらない、感情を抱いてもらうために。あの日の私のように、運命的な出会いをする人が増えますように。そう祈りを込め、最後のページをまとめた。そこにはもちろん、白黒の野木崎の写真が、小さく載っているだけだった。
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