夏の終わりの花火

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【ユッコ】 静かな夜に乾いた音が響く。 ひりひりと痛む頬。 愛情の欠片も無い祖父の冷たい目が私を見下ろしていた。 孫にこんな目を向けられるものだろうか。 目にいれても痛くないねぇと孫に頬ずりするお爺さんを見た事があるが、私には異界の光景かと思えたくらいだ。 祖父と私の二人暮らしと言っても良いくらいのこの家では、絶対的な権力を祖父が握り、自分が気に食わないと、私が少しでも意に沿わない動きをするだけで、こうして制裁が下されるのだ。 居間を挟んだ奥の和室から、母が不気味に呻く声が聞こえてくる。 祖父と私の二人暮らしと言って良いくらいというのは、母は父が事故で死んで以来ずっとああして部屋に籠っているからだ。 無気力と絶望に精神の深くまで食い尽くされてしまった母は、トイレくらいでしか部屋から出てくることは無かった。 食事もろくにとらない。私を娘とも認識しない。喋る事も、泣く事もせず、ただ呻くだけの毎日。 私からすれば母は死んでいるも同然だった。 私が祖父に叩かれようと、髪を鷲掴みにされていようと、母は声一つかけてくれることは無い。 生気のない瞳でぼんやりと見つめるだけ。 愛する人との間に出来た娘すらもう彼女には見えていない。 私の面影に父を重ねて見ていたりするだろうか。 魂の抜けきった母の瞳は、きっともうこの世のものは何一つ見えていないのでは無いかと思う。 祖父に至っては、他人には愛想も良く、顔も利く。 人格者だと思う人もいるらしい。 私はそんな祖父の人間性も見抜けない、立派な人だと口を揃える村の人間丸ごと大嫌いだった。 「あんなガキと一緒にいるからお前までおかしくなるんだ。まぁ、あの男の娘だからおかしくなるのは遺伝か。ほら、早く出ろ」 袖を掴まれ、引きずられるように裏の蔵に連れていかれる。 他に芸は無い物かと呆れそうになるほどのいつものパターンだ。 家には戻れないように鍵は閉められてしまうので、仕方なく朝までここで過ごさなければならないのだが、今夜は違う。 乱暴に蔵に放り込まれて扉を閉められるが、幸いトイレが外にあるので蔵の鍵を閉められることは無いのだ。   蔵の奥に隠していたリュックを背負い、祖父の足音が聞こえなくなるのを確認する。 昼間に荷物をまとめて蔵に置いておいた。 今夜は祖父を怒らせるために、わざと言いつけも破り、勉強もしなかった。 ここから出られる。 正直、不安はかなり大きい。だが美沙子さんの言う通り、本当に大丈夫なのであればこれ以上嬉しいことは無い。 「ばいばい。お母さん」 母がいる部屋の、灯りのない窓を一度振り返る。祖父が母に食事をとらせようと、まるで赤子をあやすような口調で話しかけている。 それに対し、母が何か喚きながら皿を壁に投げつける音が外にまで聞こえてくる。 母が思うように自分の愛情に応えてくれない分、余計に私に辛く当たる。 これからはそのサンドバックと化した私がいない生活が始まるのだ。 大嫌いな男の姿しか見えていない母を、ああして祖父は自分が死ぬまで世話をし続けるのだろう。 自分の用意した縁談を無視して愛した男と結婚した娘は、亡き後もその男の影を追い続ける。 最後の最後まで、祖父にとっては思い通りにならない娘。 いい気味だ。 リュックの肩紐をぎゅっと握り締めた私は、裏口の扉をそっと閉めた。
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