アリアドネの糸

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俺は人を殺した罪で、島流しの刑に処された。執行は今日。どんな島に送られるのか知らないが、食料も真水もろくにないことだけは確かだ。普通の人間なら、数日、もって一ヶ月。何もできないまま樹木に遺文でも刻んで飢え死に、獣の餌になって終わりだ。 だが俺は、これっぽっちも焦っていない。恐怖も感じていない。別に現実逃避しているわけでも、悟りを開いたわけでもない。 俺には勝算があるのだ。必ず島から生きて脱出し、ここへ帰ってこられるという。 ギイィ、と軋む音を立てて、独房の扉が開かれた。数人の看守が入ってきて、重々しい口調で告げる。 「囚人××番、これより刑を執行する。なお、すでに知っているかもしれんが、執行にあたり何か好きなものをひとつだけ、島に持っていくことを許可する」 知っているとも。その制度のおかげで俺は島を脱出できるのだ。 「本当になんでも、持っていってよろしいのですね」 俺は看守に確認する。看守は哀れむような目で俺を見ながら応えた。 「ああ、何でもだ。船に積んで運べるものならな。だがあまり喜ばない方がいい。これまで何人もの受刑者を見てきたが、生存に有効といえるものを持っていった者はひとりもいない。ライター、懐中電灯、携帯、非常食、寝袋……。どれも一時凌ぎにはなるものの、結局は食べるものが無くなって死ぬ。それを分かっている奴らは、小説だの人形だの家族の写真だの、はなから死ぬ覚悟で流されていく。だから、そんなに嬉しそうな顔をしないでくれ。こちらの胸が痛む」 お前らの感傷など知るか。俺の頭の中はもう、帰ってからの生活のことでいっぱいだ。そうとも知らずにこの看守どもは、俺の身が滅ぶと信じ切っている。これが笑わずにいられようか。 「わかりました。私が持っていきたいものは、家にあります。なので一度、家に寄ってもよろしいですか」 「いいだろう。ただし、我々も同行する」 「ええ、もちろんです。私が逃げ出したりしたら、大変ですからね」 俺は余裕たっぷりに言ってやった。 手錠と目隠しをされたまま車で揺られること数十分。懐かしい我が家に帰ってきた俺は、看守に促されるまま中に入った。 「さあ、お前が持っていきたいものは何だ」 「この中にあります」 そう言って俺はクローゼットを開き、 「これです」 一台の掃除機を指さした。 「掃除機か」 「そうです」 「何でまたそんなものを……」 「いけませんか。船に乗せられるものなら何でもいいと、おっしゃいましたよね」 「いや、ダメだと言っているわけではない。お前が本当にそれでいいなら、このまま港に向かおう」 「はい、お願いします」 看守どもは、恐怖のせいで俺の頭がおかしくなったと思っているに違いない。港に向かう車の中、俺は掃除機を大事に抱えながら、目隠しの下でほくそ笑んだ。そして、久しぶりに見た自宅の風景を思い返す。数日後、いや、早ければ明日には、俺はあの家に帰っていることになるのだ。島に着いた時点で処刑は完了するわけだから、たとえ帰ってきたことがばれても罰せられることはない。俺は、流刑を生き延びて戻った史上最初の人間として、あらゆるメディアから引っ張りだこになることだろう。そうなれば、俺は独房にぶち込まれる前よりもはるかに優雅な生活を………。 あれこれ想像を繰り広げているうちに、港に着いたようだ。目隠しを外されて車の外に出ると、目の前には広大な海がひろがり、そばに一隻の小さな船が浮かんでいる。当然、ここから島などは見えない。俺はこれからあの船で、遙か遠い絶海の孤島へ運ばれるのだ。 「さあ、乗るんだ」 「はい。あっ、ちょっと待ってください」 俺は掃除機を地面においた。そして、プラグコードを引っ張り出して、近くの木杭にぐるぐると巻きつけてしっかりと固定した。ふたたび掃除機を抱えて、俺はにこやかに言った。 「お待たせしました、行きましょう」 俺と数人の看守を乗せた小舟は、深い青の水面を切るように進んだ。手元の掃除機はキュルキュルとコードを吐き出し続ける。やがて港が視界から消え、どの方角にも水平線しか見えなくなった。 数時間後、とうとう船は島に到着した。 思った以上に長い船旅だった。途中、突然掃除機が不審な挙動をしてあやうく海に落としかけたりもしたが、何とかここまで持ってくることに成功した。 「では、良い余生を」 そう言い残して、看守たちはまた船にのって帰っていった。 俺は砂浜に立って、島を仰ぎ見た。森が鬱蒼と茂っている。ただそれだけだ。やはり、こんなところで人間として暮らすことは不可能だろう。 振り返ると海。そして、俺の両手の中にある掃除機からは、大海原のはるか彼方に向かって、コードが果てしなく伸びている。さあ、帰ろう。 俺は掃除機を砂の上において体全体でがっしりとしがみつき、コードの巻き取りボタンを押した。 体が急激に加速する。水面に刺さった爪先が鋭利な波紋を引きつれて進む。空を飛んでいるような気分だ。正面から顔に当たる風が気持ちいい。俺を乗せた掃除機は水しぶきを上げながら、敷かれた軌道の通りに突き進んだ。そのまま時の経つこと10分、20分、一時間………。 俺は異変に気づいた。 掃除機は相も変わらずコードを巻き取り続けているのだが、肌に感じる爽快感がいつのまにか消えている。正面からの風もないし、ほとんど宙に浮いていた体は胸のあたりまで水に浸かっている。どうやら止まっているようだ。 俺は焦った。今から島に戻ることもできない。絶海の上にぽつりと取り残された俺にできることは、巻き取りボタンを押し続けることだけだった。もしかしたら、途中でコードがたゆんでいるだけかもしれない。そうだ、そうに違いない。俺は信じて巻き取りを続けた。 だが、やがて遠くの方から飛来してきて、すっぽりとはまるべき場所にはまったそれは、紛れもない、プラグの先端部分だった。そこには二つの小瓶がくくりつけられていて、中には紙が丸まって入っていた。ひとつ目の紙にはこうあった。 『通告。重大な法規違反。 何者かが仕掛けたこのコードによって、重要な任務の最中であった我々の船は転覆し、任務は失敗した。これを読んでいる者、もしも心当たりがあるのなら、下記の部署に出頭するように。本来なら死罪に値する行為であるが、出頭すればいくらかの減刑は考慮する。 公安警察 処刑執行部』 そしてもうひとつの紙には、急いで書いたような字で短い言葉が書かれていた。 『ありがとうございます。おかげで助かりました』 どちらの内容も、どうでもよかった。コードを勝手に解いたやつは、誰だ。
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