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花を吐く
花を吐く
「気持ち悪い! また吐きやがった!」
クラスでも暴力大好きな奴がそう言い放つ。僕は手に持っていた花言葉辞典を閉じて、空き教室へと足を運んでいた。
「大声で先生呼んでもいいなら、続けてどうぞ」
僕は空き教室にたむろする連中に声をかける。奴らはぎょっと眼を見開いて、逃げるように教室を後にした。
後に残ったのは、床に散らばる大輪の芍薬と、ボロボロになって壁に寄りかかる一人の男子中学生。
僕は花言葉辞典を開いて、芍薬の花言葉を調べる。芍薬の花言葉は怒り。
「怒ってるんなら、殴り返せばいいちゃん」
そう、伸びているコトハに語りかけると、彼は機嫌悪そうに顔を顰めた。彼の唇から、またぽろりと芍薬の花が生まれる。
「奴らに怒ってるの。僕に怒ってるのどっち?」
冷たく訊いてみる。するとコトハは床に散らばる赤い芍薬の花を僕にぶつけてきた。
芍薬は僕にぶつかって散ってしまう。散った花弁は、ひらひらと床を赤く染め上げる。その赤を見て、僕は思い出す。
ネモフィラの花畑に倒れていたコトハ。彼は喉を切りつけられ、苦しげに花畑の中で呻いていた。そんなコトハの頭上を、ネモフィラでその身を飾った鯨が泳いでいたのだ。
その日を境にコトハは言葉を失い、代わりに自分の『感情』を伝える花を吐くようになった。
どんと壁を叩く音が聞こえて、僕は我に返る。
コトハが僕を睨みつけている。僕は苦笑しながら、そんなコトハに近づいていた。コトハに手を差し伸べると、彼はその手を弾き飛ばしてきた。
「じゃあ、自分で自分の気持ちぐらい伝えなよ。僕は、もう知らないから」
僕の言葉にコトハは大きく眼を見開く。彼は気まずそうに眼を伏せ、僕の手を握り締めてきた。僕は微笑んで、彼の腕を引っ張る。
立ち上がった彼は、ほんのりと赤らめた顔を僕から逸らしていた。その唇から、花が零れ落ちる。それは、小さなネモフィラに似た花だった。帰化植物のオオイヌノフグリだ。
花言葉は、誠実、信頼、清らか。
「君は僕を信頼してるってことで、いいのかな?」
そう尋ねると、彼は耳を真っ赤にしながら頷いてくれた。
この世界には、言葉を喰らう鯨がいる。2010年代に流行ったネモフィラのブームによって、その鯨が泳ぐネモフィラの花畑は全国各地に作られた。2020年代になってもその人気は衰えることなく、全国に鯨の泳ぐ花畑は広がっている。
人は、その鯨をネモフィラの鯨と呼んでいる。鯨は、人の言葉を喰う見返りに、その人が望む異能を与えるのだ。
どうして鯨がネモフィラの花畑に現れるのか。どうして、人の言葉を喰らうのか詳しいことは分かっていない。
ただ、鯨に会った人間はコトハを含め、この国に数十人は存在するらしい。海外での報告例を併せるとその件数は数千件にまで膨れ上がるというから驚きだ。
学校の帰り道、僕はコトハと手を繋ぎながらネモフィラの花畑の中を横切っていく。数年前、コトハはここで喉を切られて倒れている所を発見された。第一発見者は僕。首を切られた彼の傍らには、変わり果てた彼の母親の姿もあった。
「コトハ、ここは通るのはもう……」
そうコトハに声をかけると、彼は静かに首を振った。
ここに来るたびに、あのときの光景が脳裏をちらつく。僕だって参ってしまいそうになるのに、コトハはこの場所に寄りたがるのだ。
夕陽に赤く染まるネモフィラを見つめながら、コトハはそっと口を開く。口から零れたのは、白いカーネーションだった。白いカーネーションの花言葉は、あなたへの愛は生きている。そして、カーネーションは母親に捧げられる花だ。
白いカーネーションをそっと両手で持ち、コトハは伏せた眼をネモフィラの花畑へと向けた。風が吹いて、コトハの髪をゆらす。彼はそっとカーネーションを持った手を伸ばし、カーネーションを空へと放った。
橙の光を浴びながら、白いカーネーションは黄金色に光ながら彼方へと去っていく。伏せられたコトハの眼からは、ほろほろと涙が零れていた。
自分を庇って殺されてしまった母親の冥福を祈るために、コトハは花を捧げることを忘れない。母親の棺を覗き込みながら、紫のヒヤシンスを吐いていたコトハのことを思い出す。紫のヒヤシンスの花言葉は悲しみ。ヒヤシンスを吐き出した彼は、後悔の花言葉を持つカンパニュラもその口から吐き出していた。
カーネーションを攫った風が、コトハの涙を空へと舞わせる。僕は空に舞う涙を見つめながら、コトハの手を強く握りしめていた。
低く、低く、鯨の唸る声が聞こえた。
僕はその声に導かれるままに寝台から起き上がり、窓へと向かっていた。カーテンを開くと、半透明な体を夜空に透かす鯨と眼が合う。巨大な鯨は、その身に無数のネモフィラの花を咲かせているのだ。
ネモフィラの鯨だ。鯨の青く光る眼が僕を捉えている。僕はびっくりして、口を大きく開けることしかできなかった。そんな鯨が、街の外れにある丘へと泳いでいく。そこはネモフィラの花畑がある場所だ。その場所に、何頭ものネモフィラの鯨が向かっている。
僕は、窓を開けて窓枠から身を乗り出していた。僕の家の前をライトをつけた自転車が駆け抜けていく。必死になって自転車をこいでいるのは、コトハだ。
コトハを見て、僕の脳裏に考えが過る。
人の言葉を引き換えに、ネモフィラの鯨は人に異能を授ける。では、言葉以外のものを差し出したらどうなるのだろう。
例えば、自分の命を差し出したら、大切な人が蘇ったりするんじゃないかと、考える人間もいるかもしれない。
「駄目だ! コトハ!!」
去っていくコトハに、僕は叫んでいた。コトハは、自分の命と引き換えに、母親を蘇らせてもらうつもりなのだ。僕の言葉も虚しく、彼のこぐ自転車は暗闇に消えていく。
僕は窓から顔を引っ込め、机の上にある自転車のカギを握り締めていた。
息が上がる。心臓が破裂しそうだ。
苦しさを覚えながらも、僕は自転車をこぐことをやめない。早くコトハのもとに行かなければ、コトハは永遠に僕の元から去ってしまう。
母親と一緒に言葉を失ったコトハ。そんな母を弔うために花を吐き続けるコトハ。
母親の棺に吐いた花を並べる彼を見て、僕は誓ったんだ。僕がコトハを守るって。
血に塗れた彼を見つけたのは僕。彼を助けられなかったのは僕。僕はもう少し早く彼を見つけていれば、彼のお母さんは今も生きていたかもしれない。
ずっと僕は後悔している。その後悔ゆえにコトハの側にいる。
それが自己満足だとしても、僕はそれしか彼に償う方法が分からない。花となって語られる彼の言葉を理解してやることしか、僕にはできないんだ。
坂になっている遊歩道を自転車で登り、僕は丘の頂へとやってくる。ネモフィラの花に囲まれたその場所にコトハは立っていた。そのコトハの周りを、鯨たちが取り囲んでいる。
ふっとコトハが花を吐きだす。吐き出された花は白いドクダミ。ドクダミの花言葉は自己犠牲だ。
「駄目だ、コトハ!!」
僕は叫び、自転車から降りていた。驚いたコトハがこちらに顔を向ける。僕はコトハにかけていき、彼を抱きしめていた。
「僕の命を代わりに持って行ってください! だから、コトハからはこれ以上奪わないで!!」
空に浮かぶ鯨たちに僕は叫んでいた。
瞬間、ぱっと周囲が明かりに包まれ、僕は気を失っていた。
低い、鯨の唸り声がする。その声に導かれるように、僕は眼を開けていた。空に浮かぶ鯨の一体が黄金色に輝きながら、その姿を変えていく。人の姿をしたそれは、死んだはずのコトハのお母さんだった。
黄金色に輝く彼女は、花畑に立つコトハにそっと微笑んで、コトハを抱きしめる。コトハもまた、お母さんを強く抱きしめて、大粒の涙を流していた。
ぽろぽろとコトハの口から花が零れていく。それは紫色のカンパニュラだった。
カンパニュラは後悔という花言葉のほかに、謝罪という花言葉も併せ持っている。コトハは、死ぬためにここにやって来たのではない。お母さんに会うためにこのネモフィラの丘にやって来たのだ。
ネモフィラの鯨は、人の魂なのだ。人の魂が、残された大切な人を見守るために姿を変えたものなのだ。
コトハの花は、風に乗って鯨になった母親に届いていたはずだ。その思いを受け止めて、彼女はコトハに会いに来た。
彼女がコトハの体を離す。僕がゆっくり体を起こすと、彼女は僕を見つめてきた。寂しげな笑みを僕に向け、彼女は唇を動かす。
――コトハを見守ってくれていて、ありがとう。
僕の耳に澄んだ女性の声が響き渡る。彼女は眼を瞑ると、体を光らせながら空へと昇っていくのだ。その姿は鯨へと戻り、彼女は仲間と共にネモフィラの丘を去っていく。
じっとコトハは、闇に消えていく鯨たちを見守っていた。
「コトハ……」
そんなコトハに僕は声をかける。立ち上がった僕に顔を向け、コトハは涙に濡れた眼に笑みを浮かべた。
僕はコトハに歩み寄り、彼の体を抱きしめる。コトハもまた、僕の体を抱きしめ返してくれた。
彼の唇から、花が零れる。それは赤いゼラニウムだった。赤いゼラニウムの花言葉は、君がいて幸福だ。
ゼラニウムの花を手に持ち、そっとコトハは僕の髪にその花を飾った。
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