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3
灰色の木々が途切れて視界が開ける。
確かにそこに川はあった。
ざあざあ流れる水の音は、普段であれば心地良く耳に響いただろう。だが、しかし。
「どう、しましょう?」
黙ってしまった秋人を、穂乃香は困り顔で窺う。革靴の下で砂利が鳴った。
小石が転がる先に流れる広い川。茜色の空を映す筈の水面は、薄墨を流し込んだ色で染まっていた。
川辺に屈んで覗き込むと、川底は見えないながらも辛うじて自分の顔が映る。透き通っているとも、濁っているとも言える透明度。上澄みだけ掬い取り、目を瞑れば飲めそうな気がしなくもない。
腕を組んだ秋人が川を睨んでいる。喉の渇きと水の色、どちらを我慢するべきか葛藤しているのは横顔からでも明らかだった。
穂乃香は恐る恐る水面へ手をかざす。ひやりとした感触が掌に伝わる。薄墨色さえ無視すれば渇いた喉を潤せるであろう冷たさに、何故か固唾を飲んだ。手を差し入れて掬おうとする。
「・・・・・・っ?!」
水に触れた指先に痺れが走った。すぐさま手を引き抜き、立ち上がって水滴を振り払う。
掌を凝視しても傷はない。ただ、得体の知れない不快感だけが残っていた。
「・・・・・・っ、あーくん、駄目です!」
川へ水筒を突っ込もうとしていた秋人を、焦りに上擦った声で制止する。
「何でだよ?」
問う声には苛立ちが混じっている。視線を受けた穂乃香は一旦俯き、スカートを握り締めて顔を上げた。
「この水は、飲んだら駄目です」
「何でだよ?」
穂乃香の張り詰めた表情から何かを感じ取ったのか、口調からは少し険が取れていた。彼の目を真っ直ぐに見返し、穂乃香は指先と声に力を入れる。
「もの凄く、イヤな感じがします。飲んだら取り返しがつかなくなりそうな、そんな気が」
だから駄目です、と繰り返す。
喉が渇いている彼を水場まで案内しておきながら、理不尽な事をしている自覚はある。その理由が「イヤな感じがする」などと言う曖昧極まりない勘であれば尚更、怒りをぶつけられて当然。
それでも彼を止めなければならないと、脳裏で警鐘が鳴り響いている。
川面へ目を移した秋人は、しばらく無言だった。
「・・・・・・分かった」
「え?」
「お前が言うなら、その方が良いんだろう」
秋人はがりがり頭を掻き、水筒を片付けた。通学鞄とスポーツバッグを担ぎ直して川へ背を向ける。
まさか聞き入れて貰えるとは思わなかった穂乃香は、戸惑いも露わに尋ねた。
「信じて、くれるんですか?」
「昔、山の中で迷子になった時も、お前の言う通りにしたら助かった。だから今回も信じる」
彼が言っているのは、十年前、二人が七歳の時の出来事だ。
探検のつもりで近所の山へ遊びに入った二人は、珍しい植物や木の実に気を取られているうちに帰り道を見失った。
日が傾いた暗い山中は、木の葉が風で揺れるざわめきと、動物の鳴き声が谺していた。
男子としての意地で恐怖を押し隠し、それでも滲み出る不安に唇を引き結んでいた秋人の手を、穂乃香は引いて歩いた。時折探る様に足を止めながら、それでも町へ下りる道を探し当てた。
両親にこっぴどく叱られた後、「どうして道が分かった?」と秋人に聞かれた穂乃香は答えたのだ。「何となく、こっちかなって思ったの」と。
それを、彼は覚えていてくれた。そして、あの時みたいに自分を信じてくれると言う。
「あ、りがとう、五十嵐君」
こみ上げる嬉しさで浮かんだ涙を、慌てて空を見上げる事で誤魔化した。
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