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 秋人は水への未練を断ち切る様に、大股で川から離れる。だが穂乃香が駆け寄ると振り向いて足を止めた。先程は噛み合わなかった二人の視線が、真っ向から交わる。 「思い出した事がもう一つある」  無理をして喋らない方が、と気遣う穂乃香を遮って、彼は掠れた声で続ける。 「ここで目覚める直前に何をしていたか、だ」  強い眼差しで射抜かれて、穂乃香の全身から血の気が引いた。背中を這うイヤな予感に身震いしながら、じりじり後退る。その両腕が、一息で距離を詰めた秋人によって拘束された。 「思い出せ」 「・・・・・・、や」 「あの時、お前は」 「イヤ、です」 「車に轢かれそうになって」 「や、めて」 「助けようと飛び込んだ俺と一緒に」 「止めて下さい、あーくん!」  悲鳴じみた叫びを上げ、固く目を瞑る。体を捩り、耳を塞いで拒絶しようにも、秋人がそれを許さない。  脳裏に蘇るのは、穂乃香を追って横断歩道へ駆け込む秋人の姿と、彼が何かを叫ぶ声。耳をつんざくブレーキ音と、眼前に迫る真っ赤な自動車、体を襲う鈍い衝撃。 「横断歩道の信号は青だった。向こうはかなりスピードを出したまま右折して来たから、のんびり屋なお前では避けられなかったのも仕方無かったのかもな」  そこに非難の色は無い。詰られず静かに諭される方が、責められるよりはるかに穂乃香の心を抉った。  穂乃香は答える代わりに緩慢な動作で首を振った。ほどけた髪が頼りなく揺れる。 「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい……っ」  引き攣って上手く動かない喉から、小さな声を絞り出す。痛みと熱を帯びる目頭に力を込め、零れそうになる涙を懸命に堪えた。  ここで泣くのは穂乃香の自己満足でしかない。泣いても穂乃香の気が済むだけで、事態は進展も好転もしないのだから。  謝っても謝り切れるものではないと重々承知していても、今はただ、謝るしか出来なかった。 「巻き込んでしまって、ごめんなさい。あ・・・・・・五十嵐君には、」  言いかけて、止める。口を閉ざすと、秋人の顔が近付いて来た。 「今、何を言いかけた?」 「何でも、ないです」 「俺に対して悪いと思っているなら途中で止めるな。全部言え」  そんな言い方は狡い。  両手の自由を奪われたまま、穂乃香は深く項垂れた。足元に落ちた通学鞄へ視線を落として唇をわななかせ、告げるべき言葉を探して喉の奥を空転させる。 「・・・・・・五十嵐君には、待っていてくれる子がいるのに」 「は?」  ようやくカタチになった言葉は、秋人にとって意味不明過ぎたらしい。呆気に取られたのか、穂乃香を掴む手から力が抜けた。 「五十嵐君、告白・・・・・・されていましたよね?後輩の子に」 「・・・・・・見てたのか」  秋人の声音が低くなる。不機嫌さを纏わせた彼に、穂乃香は体を竦ませた。 「ごめんなさい、覗き見するつもりは」 「別に構わない。いや、お前に見られてたのは全然良くないけど、でも昇降口だったし」  ぶっきらぼうな言葉遣いの中に垣間見える、こちらを気遣う気配。それが感じ取れるだけに、穂乃香はますます縮こまった。 「これから、お付き合いを始める所だったのに、私の、せいで」  あの時、ちらりと見えた後輩の頬は紅く染まっていた。緊張で今にも泣き出しそうなその表情は、同性の穂乃香から見ても可愛らしかった。  秋人は穂乃香と同程度の身長で男子としては少々小柄だが、竹刀を振る姿はさまになっているし、顔立ちも整っていて人目を惹く。だから、同級生や後輩の人気を集めていると穂乃香も聞き及んでいた。  最近は、しばしば告白されているという事も耳にしていた。  その度に心臓を握り潰される様な痛みを覚えては、告白を断ったと人づてに聞いて密かに胸を撫で下ろしていた。  そんな自分の浅ましさがイヤでイヤで。でも、いつしか拒まれるようになった自分の手を見詰めると、どうしても一歩を踏み出す勇気が持てなかった。  せめてあと一か月、あと一週間、あと……数日で良いから。その時までには、心を決めるから。  そうやって怖気づいている間に、あの瞬間を目撃してしまった。  今回こそ、秋人は告白を受け入れるだろう。そう思うと、息の根を止められた気がした。歩き方が分からなくなった足でその場を離れ、そして。  自分が勝手にショックを受けて、ぼんやりしたまま横断歩道へ進入したから、彼をこんな場所へ引き込んでしまった。  死んだ者が流れ着く、赤暗く不毛な世界へと。 「お前、最後まで見てなかったのか。あれなら断った」 「・・・・・・え?」  言葉の意味をすぐには理解出来なくて、穂乃香は目を見開いた。真っ白になった頭の中で、秋人の言葉が回る。  断った? 「どう、して?」 「手を繋いだりキスしたり、他にも色々したい気持ちはある。でも、そういうコトをしたい相手は一人だけだから」  掠れた声で、それでも彼ははっきり言い切った。芯の通った口調に、穂乃香は力の無い笑みを返す。  躊躇って動けなかった自分とは対照的に、彼はとっくに思いを定めていたのか。 「そう、ですか。好きなコ、いるんですね」 「いるよ」 「だったら尚更」 「だから、っ?」  語調を荒らげた秋人が、穂乃香の腕を掴み直す。一気に険しくなった秋人の顔は足下へ向けられている。  彼の視線を追って下を向いた穂乃香は、その時になって右足首に違和感を覚えた。水気のない、からからに乾いた何かが絡み付いている。  ――それは、人の指。  認識すると同時に右足が引っ張られた。よろめく体が秋人に引き寄せられる。 「このっ!」  秋人は抜き放った竹刀を乾いた手へ突き立てる。何度か繰り返すと、ぱきっ、と乾いた音を立てて足を拘束していた手が粉微塵に散った。  秋人と二人で長い息を吐き、密着した体勢に気付いて慌てて体を離そうとした瞬間、今度は左足の甲を押さえ付けられる感触があった。砂利の隙間から生えた新たな手指が穂乃香の足へ伸びる。 「くそっ」 「あーくん!」  彼が狙いをつけやすいよう、足を踏ん張って抵抗していた穂乃香が叫ぶ。下に気を取られている間に、彼の背後に老いた人影が現れていた。  秋人の背中にべたりと張り付いて首に手を掛ける人影の、襤褸を纏った生気のない双眸。秋人は舌打ちしたものの、彼一人では自分の背後と穂乃香の足下、両方に対処は出来ない。  何か打つ手はないかと穂乃香は懸命に思考を巡らせる。このままでは二人共捕まってしまう。せめて秋人だけは逃げ延びて欲しい!  その時、視界の端に自分の三つ編みが映った。考えるより早く毛先を掴む。 「えいっ!」  引き抜いた紺色のヘアゴムを指に掛け、秋人の肩から覗く老人の顔面へ向けて弾き飛ばした。至近距離からの不意打ちに相手が怯んでくれれば行幸、或いは目に当たって隙が生まれれば次の手を打てる可能性がある。  そんな賭けに近い行動は、予想以上の効果を発揮した。ヘアゴムが当たった瞬間、痩せ細った人影は物凄い勢いで後方へ吹っ飛んだのだ。  確かに間近でヘアゴムを叩きつけられれば相当、痛い。それでも人を吹き飛ばせる程の威力があるとは考えにくい。  その様子を見て、秋人が叫んだ。 「俺のズボンのポケットを探せ、早くっ!」 「は、はいっ!」  急かされるまま秋人の制服を探る。指に触れた物を摘んで引き上げると、紛失したと思っていた穂乃香のヘアゴムが出て来た。  何故彼がこれを持っているのか。問いが口を突きそうになって、直ぐに意識を切り替える。今は何よりも先にするべき事があった。  足首を這う乾いた手を狙ってヘアゴムを弾く。骨と皮だけの体が勢い良く跳ね飛ばされた隙に、穂乃香は秋人に引っ張られてその場を逃れる。  後から現れた人影の幾つかは、穂乃香達には見向きもせず薄墨色の川に向かっていた。干乾びた彼らも喉が渇くのかと穂乃香が不思議そうに見遣る先で、彼らは川へ頭を突っ込み水をがぶ飲みして――水面から現れた顔面はより一層、水気を失っていた。  秋人もその変化を目の当たりにして顔を強張らせる。  もし、穂乃香が止めなければ、彼も今頃は。  身の毛もよだつおぞましさと、最悪の事態を免れた安堵を感じながら、二人は鞄を抱えて一心不乱に逃げ続けた。
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