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 どこをどう走ったのか、最早分からなくなっていた。革靴で擦れて血が滲む足の痛覚も麻痺している。  汗ばむ喉元に髪が張り付いて不快だけれど、それを払い除ける時間すら惜しい。  追い縋る様に、或いは行く手を阻む様に現れる病的なまでに痩せ細った追手に対し、通学鞄の中から掴み出した物を投げつけては牽制して進路を確保した。  意外だったのは、刺されば痛そうなペン類やカッターは物ともしないのに、穂乃香のヘアピンだけは効果覿面だった事だ。  ヘアピンが掠っただけで断末魔の悲鳴を上げてのた打ち回る姿は異様だったが、それを見た穂乃香は漠然とした引っ掛かりを感じていた。  一言で表現するなら、既視感。  こんな漫画や小説みたいな現実離れした場所に足を踏み入れたのは勿論、初めてだ。それでも、お化け屋敷とも違うこの異界を、自分は体験した事は無くても『知っている』のではないか。しかし、この状況では深く考えていられなかった。  三つ編みが解れて一層ぐちゃぐちゃに乱れる髪から垣間見る風景は、またしても見覚えのないものに変わっていた。細い道は緩やかながら上り坂になっている。地面はやはり乾燥していて、走る足先から土埃が舞い上がる。  咳込んで走る速度が緩むと、合わせて秋人も速度を落とした。ただでさえ渇いている喉に土を吸い込んだせいで、二人共呼吸が辛くなっている。  心臓がどくどく脈打って治まらず、息を吸っても吐いても苦しい。今にも膝をつきそうになりながら肩で息をしていると、ふと、微かながら流れる風を感じた。奇妙に生温かい微風が頬を撫で、穂乃香の長い髪を揺らす。 「・・・・・・?」  穂乃香は顔を上げて耳に神経を集中させる。 「あーくん、何か聞こえませんか?」  穂乃香が問うと、インナーの袖で額の汗を拭っていた秋人も視線を上げて風に耳を傾けた。険しい面持ちで風の音を聞いていた彼は、はっと息を飲んで穂乃香と顔を見合わせる。思わずお互いに一歩踏み込んで頷き合った。 「これは、父さんと」 「おばあちゃんの声です!」  風の向こうで、家族が悲痛さも露わに二人を呼んでいた。秋人が渇いた喉を無理矢理ごくりと鳴らす。 「でも、もしかしたら何かの罠かも」 「いいえ、あの声は本物です」  穂乃香は迷い無く言い切った。口にしてから、そう断言出来る自分に驚く。  穂乃香を凝視していた秋人の目が動いた。つられて穂乃香が背後を振り向くと、坂の下に複数の人影が見えた。土埃と足音が地響きを伴って接近して来る。 「行くぞ」  差し伸べられた秋人の汗ばむ手に己の手を重ね、穂乃香は再び走り出す。すぐに早く荒くなる呼吸の中で秋人の声が聞こえた。 「お前を、信じてる」  その言葉だけで、穂乃香の胸が痛い程に熱くなった。同時に、苦みを帯びた切なさも。  彼はただ、これまでの経験から穂乃香の言葉を信用しているだけなのかも知れない。それでも――それならば尚更。  せめて、彼だけでも元いた世界へ戻って貰いたい。  もつれる足を堪えながら緩い上り坂を駆ける。前を向いているのがきつくなり、次第に視線は下がる。  背後を気にしつつ駆けていると、前を行く秋人が急停止した。その動きに気付かなかった穂乃香は、頭から秋人の背中に衝突してしまう。  うぐっ?と秋人の喉から妙な声が漏れる。謝ろうと顔を上げた穂乃香は、目を見開いて息を飲んだ。秋人が急に止まった理由を悟って愕然と立ち尽くす。  一本道の先は、大きな岩が行く手を塞ぐ行き止まりだった。 「上も駄目か!」  そびえる崖はまるで絶壁の如き高さで、高校生がよじ登れるものではない。何より。 「ちっ!」  来た道を鋭く睨んだ秋人から忌々しげな舌打ちが漏れる。押し寄せる足音に唇を噛んで竹刀を構える姿を見て、諦めと絶望に染まりかけた穂乃香は大きく頭を振った。秋人は穂乃香を信じてここまで来たのだ。その信頼に、何としても応えたい。  岩へ近付き、どこかに隠し扉か抜け道はないかと手探りで調べていた穂乃香は、ひとつ瞬きをして通学鞄を手放した。頬が擦れて汚れるのも厭わず、身長よりも高い岩へ張り付いて耳を押し当てる。 「あーくん、声が聞こえます。おばあちゃん達の声が!」  穂乃香が叫ぶ。どうにかして岩を動かせないかと縁に指を掛けると、背後から秋人の手が伸びて来た。二人でありったけの力を振り絞ると、ずずっ、と耳障りな音を響かせて少しだけ岩が横へずれた。  いける、と表情を輝かせた時、背後の足音が一層大きくなった。焦燥に駆られつつ、穂乃香は思考をフル回転させる。  効果があったヘアゴムやヘアピンは既に尽きている。手持ちの文房具では相手を退けられなかった。他に何か使える物は、鞄の中には何が残っていた?  ――あっ!  祖母の声を聞いて蘇った記憶があった。効き目があるかどうかは分からない。だが、このままでは岩を動かすより早く相手に捕まってしまう。  放り出した鞄を拾い上げて逆さまに振る。目的の物を掴んで前へ進み出た。 「おい、何を」  秋人の声を背後に聞きながら、穂乃香は手にした薬用リップクリームのキャップを外し、繰り出した先端を地面に押し付ける。そのまま小走りに、秋人が居る位置を中心とした大きな半円を描いた。  微かな甘い香りを漂わせて、乾いた地面に薄桃色の線が引かれる。それだけでは心許なく思えて、ひらがなで『たちいりきんし』の文字を書き加えた。  効果が発揮されなかった場合に備え、両腕を広げて立ちはだかる。ほんの少しでも構わないから、秋人を守りたくて。  背けたくなる目を、意志の力で前方へ据える。指先を、足を、緊張と恐怖で震わせる穂乃香へ殺到して来た集団は、しかし眼前で鈍い音を立てて弾き飛ばされた。透明な壁で隔てられているかの如くそこから先へ進む事が出来ず、骨と皮だけの拳で空間を殴りつけている。  それを確認した穂乃香は、成功した安堵で脱力しそうになる体を叱咤して踵を返した。 「一体、何が」 「それより、あーくん!」  何が起こったのか理解出来ずに呆ける秋人の元へ駆け戻り、岩に指を掛ける。秋人も慌てて倣った。  じりじりと、もどかしい速度で岩が動く。少しずつ広がる隙間から、強い光と、穂乃香達を呼ぶ声が溢れて来た。二人は疲労で悲鳴を上げる両足を奮い立たせ、手指に力を込める。  もう少し、あと十センチ開けば体をねじ込める、と希望が見えて来た時、背後で硝子が砕ける様な固い音が鳴った。きらきら輝く破片が飛び散り、足止めを食らっていた一団がなだれ込む。  穂乃香は向けられる虚ろな瞳の群れに慄き、すぐさま歯を食いしばって恐怖心を飲み込む。  迫る足音。間近でぶつけられるのは怨嗟の声。 『許さない』 『許さない』 『ここから逃れる事は許さない』 『逃してなるものか』 「きゃっ!」  穂乃香の髪が掴まれて体が後ろへ傾ぐ。頭皮を引っ張られる痛みに耐えて抗うものの、髪を引く手はどんどん増え、遂に穂乃香の指先が岩から離れた。  同時に、岩が大きく音を立てて動いた。人が一人、通れるだけの幅が開く。 「行って下さい、あーくん!」  ずるずる後方へ引き摺られながら叫ぶ。自分が注意を引き付けている隙に、彼だけでも向こう側へ辿り着いて欲しいと祈って。しかし。 「ふざけるな!」  一喝して竹刀を拾った秋人が、虚空を掻く穂乃香の手を取った。右手で握った竹刀を振りかぶる。 「ほのちゃんと一緒に帰らなきゃ意味が無いんだ!絶対に連れて行く!」  振り下ろされた竹刀が一瞬、輝きを帯びて穂乃香を掴む老婆の指を叩き切った。穂乃香の黒髪を巻き添えにして枯れた手が切り落とされ、白髪を乱した老婆の喉から絶叫が迸る。拘束を逃れた穂乃香の体が秋人に抱き寄せられた。  お互いの指を絡めてしっかり握り、閉じゆく岩の隙間へ飛び込んだ。 「ほのちゃん、行くよ!」 「――はいっ!」
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