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 消毒液の匂いがする白いベッドの上で、穂乃香は軽く頭を振ってみた。不揃いに切られた髪が揺れて頬を擽る。  ずれた眼鏡を掛け直した拍子に、花瓶の横に置かれたリップクリームが目に入った。桃の成分が配合されたリップの容器には砂利がこびりつき、中身は使い切られている。 「『桃には悪しきモノを退ける力がある』・・・・・・雛祭りの時におばあちゃんから聞いた話は本当だったんですね」  リップクリームの横には、穂乃香のリクエストに応じて祖母が持って来てくれた本が積まれていた。その中から一冊を取り、ぱらぱらめくる。挿し絵のページで手が止まった。  それはイザナギとイザナミの物語。  穂乃香と秋人が駆け抜けた、茜色の空と乾いた大地が広がるあの世界は、本に描かれている風景と似ている様に思える。  本へ視線を落としたまま思案に沈む穂乃香を、ノック音が引き戻す。誰何の声を掛けると、病室の入り口から秋人が顔を覗かせた。上半身を起こしている穂乃香を見て顔を顰める。 「まだ寝ていた方が良いんじゃないのか?」  問われて、穂乃香は首を傾げた。彼女自身は胸部を強打して肋骨にひびが入ったからギプスで固定しているものの、絶対安静と言う程ではない。むしろ。 「あーくんこそ、まだ歩き回らない方が良いのでは?」  左腕を包帯でぐるぐる巻いて首から吊っている秋人は、穂乃香の言葉を聞き流して入って来る。ここは四人部屋だが、この時間は皆、散歩に出掛けたりしていて室内には穂乃香一人だ。  秋人は穂乃香の足元に座ると、そのまま黙ってしまった。スリッパをつっかけた足を、子供じみた動作でぶらぶらさせる。  深く息を吸って、穂乃香は口を開いた。 「ありがとう、ございました」  深々と頭を下げると胸元が圧迫されて痛みが走ったけれど、唇を噛んでやり過ごす。止めようと腰を浮かる秋人を制して、穂乃香は続ける。 「山で迷子になった時も、今回も。私一人では、きっと戻って来られなかったと思います」  手を握って引っ張って、繋がった指先を通して『大丈夫だ』と秋人が励ましてくれたから、穂乃香は前を向く事が出来た。立ち竦んで諦めてしまわず、戻りたいと望む事が出来た。  そう、秋人が傍にいてくれたから。 「だから、本当にありがとうございました」 「……礼を言うのは俺の方だ。お前が一緒だったから、俺は迷わずに済んだ。こうして、帰って来られた。むしろ、」  言葉を切った秋人が右腕を持ち上げかけて、止める。躊躇う指が何に触れようとしていたのか、察した穂乃香は短くなった毛先を掬う。 「これは気にしないで下さい。助かる為には必要な事でしたから」 「でも」 「良いんです」  穂乃香が目覚めた時、長かった髪は肩に届かない位の長さで切れていた。家族や医師は不可解な現象に驚き、何かの病気かと疑ったが・・・・・・穂乃香自身はその理由を知っているし、検査した所で原因は解明されないだろう。  穂乃香が握っていたリップクリームと、秋人が振るっていた竹刀以外の荷物も『向こう側』へ置き去りになっている。手元へ戻る可能性は限りなく低そうだ。 「元々、あーくんが『髪の長いコが好み』と言ったから伸ばしていただけですし」 「は?」  間の抜けた声が返り、穂乃香は小さく笑う。 「幼稚園の頃の話ですよ、覚えていませんか?」  首を振る秋人を見て、穂乃香の笑みが深くなる。  長い髪を洗って乾かすのは時間が掛かったし、癖っ毛だから毎朝編み込むのも一苦労だった。それでも秋人の言葉が忘れられなくて、ずっと伸ばしていて。 「……俺が剣道を始めた理由、知ってるか?」  唐突に話題が変わり、穂乃香はきょとん、とする。 「昔、お前がテレビで時代劇を見て『お侍さんって格好良いね』って言ったからだよ」  早口にそう言って、そっぽを向く。  秋人の言葉が切っ掛けで髪を伸ばしていた穂乃香と、穂乃香の言葉が切っ掛けで剣道を始めた秋人。  それは、つまり。  お互いに耳の先を薄っすら紅く染めて、顔を見合わせる。一呼吸置いて、二人一緒に噴き出した。笑うと全身に痛みが響くが構わない。  今はとにかく笑いたかった。日が暮れるまで遊んでいた、幼い頃みたいに。 「私、あーくんには嫌われているとばかり思っていました。素っ気無いし」 「それはこっちの台詞だ。いつも俺をからかいやがって……しかもどんどん綺麗になるし」  後半になるにつれて声はしぼんでいっても、二人きりの静かな病室だったお陰で穂乃香の耳にはしっかり届いた。 「綺麗?誰がですか?」  話の内容が上手く繋がらなくて、聞き返してしまう。 「だから、お前が」 「……私が、綺麗?」 「そう。他クラスの奴も結構、噂してたんだぞ、お前の事」  穂乃香は天井を見上げ、いつも鏡で見ている自分の姿を思い出す。どうやら秋人を含む同級生達はこの容姿を『綺麗』と評するらしい、と新鮮な驚きを覚えた。 「そうだったんですか。全然知りませんでした」 「それはまぁ……全部俺が牽制してたからな」 「牽制、ですか?」 「そこは突っ込むな。スルーしてくれ頼むから」  頭を掻きむしって懇願する秋人の様子がおかしくて、でも必死さが伝わって。穂乃香はもう少し詳しく聞きたい気持ちを抑えて大人しく口を噤む。  その代わりに。 「ねぇ、あーくん」  呼び掛けても返事はない。しかし彼はかつての呼び方を拒絶しなかった。穂乃香の頬が緩む。 「私が退院して元気になったら……あーくんがしたい色々なコトを、私にしてくれませんか?」  その提案に、秋人の黒い瞳が細められた。口元が、不敵さをひらめかせて吊り上がる。 「今の言葉、後悔するなよ?」 「あら、後悔させる様なコトを私にするつもりですか?」 「・・・・・・だからお前と言う奴は」 「嫌いに、なりましたか?」  浮かれるあまり調子に乗り過ぎただろうか。一抹の不安をよぎらせる穂乃香に、秋人は『降参』とばかりに項垂れた。 「そう言うお前に振り回される自分が嫌いになりそうだ」 「大丈夫ですよ。あーくんが嫌いになっても、私はあーくんが大好きですから」  はーっ、と長い溜め息を吐いた秋人が身を乗り出した。近付く顔を、穂乃香は立てた人差し指で阻む。 「それは退院してからのお楽しみですよ」  不服そうに唇を尖らせた秋人が、渋々体を引く。ベッドから降りた秋人はそのまま病室を出ようとして――体を反転させた。え、と不意と衝かれる穂乃香の頬を柔らかな感触が掠める。 「ち、ちゃんとしたのは退院してからだからな!ほのちゃん!」  指を突き付けて宣言して、脱兎の如き勢いで病室を飛び出す。  遠ざかる足音を茫然と聞いていた穂乃香はぎこちない動作で腕を動かし、秋人が口付けた頬を掌で押さえた。じわじわと、体の芯から熱が沸き上がる。 「そう言う事なら、一日も早く元気にならないといけませんね」  もう待ちたくないし、待たせたくないから。  同室の患者が戻るまでにこの火照りを落ち着かせなければ、と焦る一方で、あと少しだけこの余韻に浸っていたくて、穂乃香は紅潮する顔を掌で包んだ。
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