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「あの滝?」 「そう、あの滝。あそこから水を汲んで来てほしい」  白い指先が示す方向には、藪の向こうに白いしぶきを上げる細い滝があった。ここまで微かに水の流れ落ちる音が伝わってくる。 「この水筒でいいの?」  フタバが頷くのを見て、悠一郎は滝へ向かって足を踏み出した。進む内にだんだん藪が薄くなり、ごろごろとした石混じりの地面に変わる。躓かないよう足の裏で踏みしめながらなおも進んでいくと、滝の姿が間近に迫ってきた。精一杯顔を仰向けないと天辺が見えない。垂直に垂らされた糸のように流れ落ちる水は、背筋がひやっとするほど下の方を流れる川に注がれている。なるべく下を凝視しないように、そろそろと砂利の地面が途切れる崖に近づいていく。辺りに舞う煙のような細かい水しぶきが、シャツや靴をしっとりと濡らす。  水筒を水で満たす間に、すっかり悠一郎はびしょ濡れになってしまった。春とは言え、まだ山の中は寒い。かじかむ指で何とか蓋を閉め、元来た道を取って返そうと勢いよく振り返ると、踵が靴の中で滑った。水筒が手から離れる。真後ろは崖だ。  落下していく浮遊感に、悠一郎は固く目をつぶった。  頭の中を、今までの出来事がものすごい速さで駆け抜けていく。  こんなときだというのに、学校のことが思い浮かんだ。  友達と遊ぶのを断り、塾に通った放課後の夕日の色や、ついに買ってもらうことができなかった流行りのゲームや、仲間外れにされ、図書室で過ごした昼休み。  不仲な両親。  自分のことをうまく話せない自分。  暗闇に塗りつぶされる直前に、薄い紫の裾が翻った。  誰かが自分の名前を読んでいる。 「ゆうくん、ゆうくん、大丈夫!?」  肩を揺さぶられて、悠一郎は目を開いた。祖母が必死の形相でこちらを覗き込んでいる。濃い土と水の匂いがした。身体を起こそうとすると背中全体がひどく痛み、うめき声が漏れた。 「ああ、良かった、気がついたんだね。こんなとこで倒れてるからたまげたわよ」  首を持ち上げて辺りを見回すと、先ほどの山道に横たわっていた。すぐそこにはカタクリの里、と大きく書かれた幟が何本も立っている。悠一郎はただぼうっと仰向けになったまま、天に向かって伸びる木々を見上げた。  ふと手に何かを握っていることに気がつき、開いてみると、カラカラに枯れた数輪のカタクリだった。  会場には、既に村の多くの人が集まっていた。あちこちの屋台から漂ってくる食べ物の匂いと、人々のざわめきに混じってお囃子の細い笛の音が聞こえる。  朝からお祭りを楽しみにしていた美登里は、先に行くと父に言い置いて曾祖母の家から一足早く祭りの会場に足を踏み入れた。  綺麗だねえ、という歓声に辺りを見回すと、会場内に吊された提灯が、ちょうど点灯されていく所だった。ぽつ、ぽつ、と順番に橙色の灯りが増えていく景色に、美登里は息をするのも忘れて見入った。  会場の真ん中を通る一本道は、両脇に屋台が立ち並び、美登里はあちこちに目移りしながら進んでいく。どの店も、つい立ち止まって何が売られているのか覗きたくなってしまう。  ふと、甘い匂いが鼻先を掠めた。匂いの元を辿るように進んでいくと、目の前にべっこう飴、と太く書かれた屋台が現れた。  背伸びをして値段表を見ると、一本300円とある。透き通ったうす黄色の飴で、見覚えのあるお花の形をしていた。カタクリというお花は昼間、父に連れられて見に行った。時期を逃すとあっという間に姿を消してしまうから貴重なんだよ、とも言っていた。  これにしよう。  お財布を取り出して屋台の列に並ぼうとした時、隣に女の子がいることに気がついた。背丈は美登里と同じくらいで、歳も同じくらいだろうか。肩まである黒い髪と黒い瞳が屋台の電灯をきらきらと弾いている。女の子は屋台の飴をじいっと見上げている。 「あの、こんばんは」  どきどきしながら声をかけると、女の子はこちらを振り向いた。その子は薄紫色の着物のようなものを着ていて、帯は赤っぽい紫だった。そして、肩から紐でつなげた水筒のようなものを提げている。薄汚れたそれは、随分古びているように見えた。 「こんばんは」  女の子はどこかぼんやりとした様子で挨拶を返した。よく見ればその子は春になったばかりのこの季節に、裸足で立っていた。何故か美登里は、それを変だとは思わなかった。 「あの、飴がほしいの?」  思い切って訊ねると、女の子はうん、と小さく頷いた。  美登里は財布の中身を確認した。お父さんから、いつもよりちょっと多めにお小遣いをもらったのだ。ちゃり、と音を鳴らして100円玉を一枚、二枚、三枚と数えていく。 「足りる」  口に出した途端、女の子はびっくりしたように目を丸くして、小さく、口元を綻ばせた。  列に並んで待つ間、何を話せばいいのか分からなくて、提灯が次々に灯されていくのをただ眺める。 「どこからきたの」  女の子が急に口を開いて、美登里はちょっとどぎまぎした。 「遠くからきたの。ひいばあちゃんがここに住んでるから」 「ふうん」 「あの、そのお着物、綺麗ね」  思っていたことを口にすると、女の子は微笑んだ。 「ずっと前にも言われたことがある」 「ふうん?」  美登里は曖昧に相づちを打つと、会話は途切れ、ちょうど自分たちの番が回ってきた。 「二本ください」  お財布から小銭を取り出しておじさんに渡すと、 「はいよ、二本ね。落とさないように気をつけて」  透き通った飴を握って屋台から離れてきょろきょろすると、女の子は提灯の下でぼうっと立っていた。 「はい、どうぞ」 「ありがとう」  白い指が飴の棒を掴む。手渡すとき、ふわ、と女の子から不思議な匂いがした。  何だろう、と首を傾げて、雨が降ったときの土の匂いに似ているのだ、と思い出した。 「美登里!」  名前を呼ぶ声のほうを振り向くと、父がこちらへ小走りに駆け寄ってくるのが見えた。 「迷子になってるんじゃないかと思って、焦ったぞ」 「今ね、女の子とべっこう飴食べるところなの」 「女の子?どこに?」  言われて、慌てて辺りを見回すが、あの子はもうどこにもいなかった。 「あのね、綺麗な浴衣の女の子と、おしゃべりしてたの」  そう言った途端、父がはっとした。膝を折って、美登里と目線を合わせる。 「もしかしてその女の子は、赤紫の帯をつけていた?」  今度は美登里が驚く番だった。大きく頷いて、 「裸足でね、水筒をぶら下げてたよ」  悠一郎は水筒、と小さく口の中で呟いて、 「そうか」  と、美登里の頭をゆっくりと撫でながら、笑みを浮かべた。  まるで懐かしいものを目にしたかのような、嬉しそうで、どこか寂しそうな笑みだった。  祭りの喧噪から外れた提灯の下、ぽちゃん、と微かに水の跳ねる音がした。
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