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 ふうふうと、くぐもった呼吸音だけが耳に響いている。勾配のきつい山道は、気を緩めれば木の根やぬかるみに足を取られて転びかねない。  肩から提げた水筒が腿に当たってぽちゃん、と音を立てる。次に道が広くなったところで休憩しようと心の中で決めた。辺りは息苦しいほどの土と緑の匂いで満ち、鳥のさえずりがいつもより近くで響き渡る。  ここは普段悠一郎が住んでいる町とも、祖母の暮らす埼玉とも違っていた。  小学四年の春休みに、母方の祖母の実家に泊まりに行くのは、悠一郎にとって初めての経験だった。正確には2、3歳の頃に訪れたことがあるらしいが、流石によく覚えていない。 悠一郎にとってのおばあちゃんちとは埼玉県であり、だが、生まれ育った家は北関東の山麓の村にあると知って、悠一郎は不思議な気持ちになった。今はそこに祖母の姉夫婦が住んでいる。  祖母が久方の里帰りを決めたと聞き、悠一郎は珍しく、自ら一緒に行きたいと祖母と両親に訴えた。村、という響きに胸がわくわくした。この時期は山菜が獲れるらしいので手伝いをすると約束して、ようやく許可が下りた。  埼玉の祖母の家を朝早く出発し、何時間も電車を乗り継いで、降りた駅から今度はバスに乗り換えて終点まで向かった。そこから更に祖母の姉、フミの車に乗って移動した。到着した時は既に太陽は沈んでいて、祖母と二人してへとへとになっていた。玄関先で、お世話になります、と挨拶をしたのが昨日のことだ。  朝、目を覚ましてすぐに窓を開ければ、景色は幾重にも連なる山に囲まれており、圧倒された。祖母の実家の裏手には川が流れ、夏にはシカが水浴びをしに山から下りてくることもあるらしい。  夕べ、フミが振る舞ってくれた三つ葉のお吸い物がとても美味しかったことを思い出す。山菜の収穫についてよくよく聞いてみれば、慣れた人でないと難しいとのことだった。仕方が無いので悠一郎は布団を畳んだり、皿洗いを手伝ったりしている。 「そうだ、もうすぐ祭りがあんべ」  朝ご飯を食べている時にフミが悠一郎と祖母に向かって話しかけた。 「何のお祭り?」 「カタクリんだ。毎年テレビ局も来る」  カタクリの里は悠一郎の地元にもあるが、花自体はパンフレットなどの写真でしか見たことがない。毎年、花の咲く時期に観光客が押しかけるため、街中で渋滞が発生し、地元の住民はかえって遠ざける原因となっている。 「祭りは明日からだとよ」  フミの夫である吾朗が祭りの告知プリントを持ってきて見せてくれた。  開催場所の地図も載っている。 「今日下見にでも行ってみりゃいんでね。一足先にみれんじゃねえか。明日はひといっぺえ来んだろし」 「じゃ、行ってみようかしらね、ゆうくんと」  祖母の言葉に、悠一郎はうん、と大きく頷いた。  その時は大丈夫だと思っていたのだ。
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