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 山を登り始めて数十分で、息が上がってきたことにびっくりした。山の道というのは平野に走る歩道や道路とは訳が違う。生まれてこの方、コンクリートやアスファルトに舗装された道しか踏みしめたことのない足が、今はひどく心許ない。何より周りは緑に囲まれているから、自分がどこにいるのかもよく分からない。  祖母は悠一郎よりもよほど確かな足取りで、すたすたと少し先を歩いていく。途中、「ゆうくん、大丈夫?」と振り返ってはくれるものの、ここで祖母を見失ったら迷子よりもっとヤバいことになる、と自分の勘が訴えていた。 「あ、ふきのとうがある」  唐突に祖母がうれしそうな声を上げ、ざかざかと藪に入っていく。悠一郎は道の真ん中で立ち止まり、大きく息を吐いた。水筒のお茶を一気に飲み込むと、やっと周りの景色を落ち着いて眺めることができた。  山の中は様々な音に溢れ、それでいて静寂に満ちていた。  祖母はなかなか戻ってこない。 「おばあちゃん」  大声で呼ばわると、「はーい」と声がして、少し離れたところから祖母がひょいと顔を出した。 「ゆうくん、ちょっと時間かかるから先に行っててくれる?この先まっすぐ行けばもうじき着くから」  嫌だ、と言いそうになるのをこらえ、「わかった」と返事をし、再び歩き始めた。  恐いなどと思っていることがばれたら笑われてしまうと思った。  ずんずん進んでどのくらい経ったか分からないが、なかなか目的地らしき場所に辿り着かないことに不安を覚え始め、ポケットに突っ込んできた祭りのチラシを取り出して広げた。  その時になってようやく、地図が非常に簡略化されたものであるか気がついた。これでは現在地も、目的地まであとどれほどの距離があるかも分からない。  がっかりしながらチラシを畳んで再び歩き出そうとしたとき、視界の端で何かが動いた。  心臓が凍り付いたような気がした。だがすぐに、村の人なら山登りをしていても何ら不思議ではないと思い直し、何かが動いた方を見ながら注意深く進み始めると、突然開けた場所に出た。  細い山道の両脇に、カタクリが咲き誇っていた。薄紫の花弁は地面に向かって斜めにうつむく。すいと伸びて首元で優雅に曲がる、細い緑の茎の先で、風がふくたびにゆらゆらと揺れている。  目の前に広がる光景に、悠一郎は息を呑んで見とれた。  写真よりも遙かに壮大で、花の一つ一つは可愛らしいのにどこか荘厳な雰囲気が漂う。絵本で見るような、と言っても過言ではないほどの花畑とは思わなかった。地元のカタクリの里でもこのくらい美しいのであれば、観光客が大勢詰めかけるのも理解できる。  花畑の奥で、かさ、と何かが動いた。花を踏まないようにゆっくり道を反れると、木立の間から日差しが差し込んだ。  女の子が花畑の中に座っていた。黒い髪に黒い瞳をした女の子は、襟元から裾へ行くにつれて、白から濃い紫色になる浴衣のような着物を着ていた。帯は赤みがかった紫色で、カタクリの花によく映えた。  女の子は悠一郎と目が合うとゆっくりと瞬きをし、唇を開きかけ、けほっと咳き込んだ。悠一郎は反射的にその子に近づいていった。 「大丈夫、ですか」  知らない相手なので、とりあえず慣れない敬語で話しかけると、女の子はのど元を指で指し、悠一郎の水筒を指さした。悠一郎は膝を折って肩から紐を外し、水筒をその子に手渡す。 その子がこくこくと音を鳴らしてお茶を飲むのを見て、ほっと胸をなで下ろす。見ればその子は裸足で、土にまみれていた。ただ、浴衣も帯も染み一つ無く、真新しいものに見えるのが奇妙だった。どこかの家の子だろうと思いつつ、その子が返してきた水筒を受け取ると肩にかけ直す。 「怪我は、ないですか」  問うと女の子は頷き、 「わたし、フタバ」  と言ってこちらをじっと見上げてくるので、 「俺は、悠一郎」  と返すと、満足そうに目を細めた。 「フタバはここに住んでるの?」 「うん。ゆういちろうは?」  舌っ足らずに名前を呼ぶ声が、どうしてだかくすぐったい。 「俺は、別の所から遊びに来た。春休みだから」 「ふうん」  会話が途切れる。悠一郎は会話の糸口を探そうとして、辺りを見回した。 「綺麗だな、この花。えっと、その着物も」  何、言ってんだろう、俺。内心で冷や汗をかくが、フタバは表情一つ変えず、すいと立ち上がった。 「こっち、もっと咲いてるよ」  フタバは木立の奥へと進んでいく。背中で結ばれた赤紫のちょうちょう結びがフタバの歩みに合わせて揺れる。時折立ち止まってはこっちを向いて、ひらひらと手招く背を追いながら、いつの間にか身体から汗が引いていることに気がついた。 「うわ、すごい・・・・・・!!」  思わず歓声を上げてしまうほどの、先ほどよりも更に無数の、カタクリ畑が視界いっぱいに広がっていた。  この世のものとは思えぬ美しさとは、こういうことを言うのだろうか。  フタバはすいすいとその中に足を踏み入れ、さっきと同じようにぺたんと座り込んだ。そして、地面を見下ろして、そのまま黙り込んでいる。  何をしているのだろうと近づくと、じっと目を閉じたまま両手を土に当てているのだった。肩の上で切りそろえられた髪が、風になびいて、木漏れ日を反射する。  悠一郎は花を踏まないよう、慎重にフタバの所へ足を運ぶ。不思議なことにフタバは無造作に歩いて座り込んでいるように見えても、一輪も花を折っていない。さすが、山に住む子は違うのだな、と悠一郎は思った。 「あと、七年」  小さく呟くのが聞こえた。 「え?何か言った?」  悠一郎が聞き返した拍子に、足取りが危うくなり、 「あっ」  ちょうど花の茂みを踏みつけてしまった。慌てて足を上げるが、靴の下の花はいくつも茎が折れてしまっていた。  フタバが真っ黒な瞳で、折れた花達を見下ろしている。  きん、と空気が冷たくなったように感じた。  今日はかなり暖かい陽気だと言っていた今朝のニュースが頭を過ぎって、山の天気は変わりやすいとも聞いたことを思い出す。  貴重な花だと聞いている。お祭りになるくらい、綺麗で、有名な花なのだ。  それを、わざとではないにしろ、だめにしてしまった。  背筋が震え、一瞬、息が白く染まった。 「ごめんなさい」  謝罪を口にすると、フタバははっとしたように顔を上げた。夢から醒めたような顔をしている。  フタバはゆっくりと首を振った。 「ゆういちろうは悪くない」 「でも」  フタバは折れてしまった花を拾い上げると、悠一郎の手に乗せた。一瞬触れあった指は、雪解け水に晒したかのように冷たかった。  吐く息はもう白くなかった。 「なら、お願いがある」  狼狽えつつも悠一郎はフタバの言葉を待った。
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