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「すみません、『花言葉屋』はこちらですか?」
軒先から現れた男を見た瞬間、産毛がざわりと逆立った。
久しぶりだ。
久しぶりの「まずい客」。
無表情な男を前に、雪乃の直感が「警戒しろ」と伝えてくる。
「いらっしゃいませ。……うちは『花言葉屋』ではありませんが」
「ですが、常連客からはそう呼ばれていますよね?」
男は紙袋を抱えたまま、ズイッと顔を近づけてきた。
「あなたですか? 『花言葉』が見えるのは」
「え、ええ、そうですが」
「一本一本の花の? 花言葉を? どのように?」
探るような声音に気圧されながらも、雪乃はいつもどおりの説明をする。
花を見つめていると、文字が見えること。
それらが、花ひとつひとつの「花言葉」だということ。
「なるほど」
雪乃を映す黒々とした瞳が、ふっと細くなる。
次の瞬間、男の唇が嬉しそうにほころんだ。
「嬉しいなぁ。ボクもなんです」
──うん?
「ボクも、花言葉が見えるんです」
「……」
「いや、性格には『浮かぶ』かな」
──ヤバい。
この男、思っていたよりも、ずっとヤバい感じだ。
「まずは証明してみせますね。このガーベラの花言葉は『愉快な毎日』。こっちのスプレーバラは『大らかな心』──」
おいおいおい。
「右端のフリージアは『もっと愛して』、左端のは『のどかな昼』──」
そうですよね、と同意を求められて、雪乃はひとまず返答を濁した。
彼女に正解はわからないし、能力を試されている可能性もある。
だとしたら安易な返答は禁物だ。
「ところで、あなたは文字が『見える』んでしたよね?」
「え、ええ」
「ボクは、脳裏に言葉が浮かぶんです」
男は、そっと目を閉じた。
「花を見つめていると、頭のなかにふわっと文字が浮かんでくる──物心がついたころから、ずっとそうで」
だから勘違いしてしまった、と彼は自嘲した。
すべての人が、自分のように花言葉を思い浮かべることができるのだと。
「でも、みんな『そんなことはできない』って言うじゃないですか。それどころか『お前はおかしい』って批難して、ボクを嘘つき呼ばわりして」
男の目が、ゆらりと揺れる。
そのあまりにも悲しげな様子に、雪乃は戸惑いを覚えた。
(そんなはずはない)
この男の言葉は嘘だ。
嘘に決まっている。
どんなに花を見つめたところで、花言葉は見えないし、浮かんではこない。
そのことを、私自身が一番よく知っているはず──
──本当に?
「嬉しい……本当に嬉しいです。ボクはもうひとりじゃない」
ふふ、と男は笑みをこぼす。
「ずっと探していたんです。ボクの仲間を。ボクの気持ちをわかってくれる同士を」
潤んだ瞳に見つめられて、雪乃はますます混乱した。
もし、もしも仮に──彼の言葉が「真実」だとしたら?
自分は嘘つきだけど、彼には本当にそんな能力が備わっているとしたら?
ここに辿り着くまで、どれだけ孤独だっただろう。
世界は、異端者にあまりにも厳しい。
彼が孤立していたことは、雪乃ではなくても容易に想像がつくはずだ。
(どうしよう)
雪乃のとるべき道は、ひとまずふたつ。
ひとつは、本当のことを正直に白状すること。
そして、もうひとつは──
「ところで、ここからが本題なのですが」
結論を出す前に、彼が声音を改めた。
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