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「ボクたちは、ひとつひとつの花の『花言葉』を見ることができるわけですが、実は一輪だけ、どうしてもボクにいは『見えない花』があるんです」
男はため息をつくと、紙袋から鉢植えを取り出した。
色鮮やかな青。愛らしいネモフィラだ。
「この花だけはどうしても言葉が浮かばない。こんなことは初めてなんです」
雪乃の唇が、わずかに引きつった。
次に彼が何を言いだすのか、なんとなく想像がついたからだ。
「お待ちください。私は……」
「あなたにこのネモフィラの花言葉は見えますか? もし見えるのなら、どんな花言葉を持つのか教えていただけませんか?」
ああ、間に合わなかった。
しかも、面倒なことになってしまった。
これでは、見えるか否か、必ず答えなくてはいけない。
しかも、彼が「嘘」をついていたら──
実は花言葉が見えているのに「見えない」と嘘をつき、雪乃に答えさせた上で彼女の能力の真偽を確かめようとしているのだとしたら、いよいよまずいことになるのではないか。
(……いや、でも……)
もうひとりの自分が「落ちつけ」と耳打ちしてくる。
だって、まだ彼が「嘘をついていない」可能性も残されてはいるのだ。
すべてが真実で、本当に彼はこのネモフィラの花言葉を知りたいだけ──そんな可能性だって決してゼロとはいえない。
ちなみに、ネモフィラの花言葉は「どこでも成功」「可憐」。
他にもいくつかあったはずだが──
(違う)
今、大事なのはそんなことじゃない。
この状況で、嘘をつくかどうか。
仮に嘘をつく場合、これまでのように「花言葉」そのものに対してか。それとも「花言葉は見えない」とした上で、その「理由」に対してか。
迷う雪乃を前に、男はそっと目を伏せた。
男性にしては長いまつげが、何かを堪えるかのように震えていた。
「この花は、たいせつな人の贈り物なんです」
──うん?
「世界で一番たいせつな人から贈られた花で……それなのに、この花の花言葉だけがボクには見えないんです」
この花がもつ言葉こそ、ボクは知りたいのに。
そう呟いた声は、静かに宙に消えた。
それくらい頼りないもので、不覚にも雪乃の心を大きく揺さぶった。
雪乃は、自分が嘘つきであることを自覚している。
それでも、嘘の花言葉を伝える上で「決めていること」があった。
(彼の、願いはなんなんだろう)
花言葉を求められたとき、雪乃はまずはそれを考えた。
そうして、嘘の花言葉が「真実」となるように願いを込めてきた。
たとえば、
小さな赤いバラが、彼の奥さんの気持ちをなだめてくれますように。
このバラの蕾が、奥さんの怒りを浄化してくれますように。
バラを彩るかすみ草たちが、ふたりの仲を復活させてくれますように。
(この人は、どんなメッセージを欲しいのだろう)
世界でいちばんたいせつな人から贈られた花。
それなら、欲しいのは「愛」だろうか。
それとも「感謝」「なぐさめ」「ときめき」あるいは──
目を閉じ、息を吸った。
それから大きく吐き出して──ゆっくりとまぶたを開けた。
可憐な青、贈り主の心。
欲しているのは、たいせつな人からのメッセージ。
「永遠」
「え……?」
「『永遠の誓い』と」
男は、目をみはった。
「それが、この青い花の花言葉だと?」
雪乃がうなずくよりも先に、男は低く呻いた。
そのとたん、すさまじい突風が雪乃と彼を包みこんだ。
「違う! 違うんだ、ユイ──そうじゃない」
永遠なんて求めていない。
そんなもの、ボクたちに必要なかった。
なのにボクが──ボクがそう伝えなかったから──
男はうわごとのように繰り返すと、やがて力尽きたようにうずくまった。
「すまない、ユイ」
どうか、許してくれ──
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