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第二話 主人公
「ねぇ!」
いきなり片腕を引っ張られた。驚いて、その先を見上げてみると、ふわふわとした茶髪の男子生徒が頬を赤く染めて俺の事を見ている。
「…。」
其の儘互いに見つめ合っていると、態とらしい咳が隣から聞こえてきた。
「君、誰?この子になんか用?」
笑顔で、しかしきつく男子生徒を睨みながらそう言い、呆然としていた俺の手を男子生徒から引き剥がした。
「…あ!ごめん…。気持ちが急いちゃって…。」
彼は眉を下げて笑顔のままそう言った。
誰も居ない廊下には何の音も響いてはこない。俺は何故だか彼から目を離せずに居た。毒々しくそれで居て柔らかで少しでも気を抜けば倒れてしまいそうなものがじくじくと俺の中を侵食していき、俺は彼から目が離せない。
「昨日、助けてくれてありがとう。其れを、伝えたかったんだ。まだ、話したい所だけど…。」
彼は未だ睨み続けている柊に一瞬視線を移す。
「今日は無理そうだし、また会えたら。俺、猪塚陽太。じゃ、またね!」
名前だけ言い残し、彼は颯爽と去っていった。その間も俺は視線をずっと彼の方に向けていた。
「…勇?大丈夫?」
「…あぁ。」
心配そうに覗き込んだ柊の顔にやっと気が緩み、俺は何とか頷いた。
柊は彼が去っていった先の廊下を見つめ、ボソリと暗い声色でこう言った。
「…あれが、主人公だ。」
俺に言ったのか、それとも独り言なのか、廊下を見つめ続ける柊の顔には明らかな嫌悪の色が浮かんでいて、俺は何も返すことが出来なかった。一体何故そんなにも主人公を嫌っているのか。どうして、俺を彼から引き離すのか。
「柊、ありがとう。」
その言葉に彼の表情は明るくなり、優しげな目を細めた。その表情が一番、良い。
分からない事が多いが、俺は柊を信じていれば良いのだろう。勿論のことだが、いきなり現れた奴より少なからずもその人間よりも知っている事が多い彼を信じるのは俺の中で当たり前の事だった。
「あ。」
どうして、こうもタイミングが良いのか。
図書室の鍵を閉めて、数歩歩いていた。最近日は益々伸び、前日見たよりも明るい夕焼けが窓の外に見えた。そんな矢先である。
彼は俺の顔を見て、顔を明るくした。
「また会えた!」
そうやって嬉しそうに目を細められ、俺は右手首を掴まれた。最高にタイミング良いことにまたしても周りに人は居ない。柊さえ居ない。つまり、俺の逃げ道は無いということになる。
『その子には絶対に気をつけて欲しい。』
柊の言った言葉が頭を過ぎる。前に感じたあの無理矢理惹き付けられる様な感覚は今は無い。それを置いといたとして、彼がどう危険なのか今の俺には判断できなかった。
柊は一体これから彼と関わる事で何が起こると思っているのだろう。
「俺、猪塚陽太。よろしく。」
「……。」
黙り続ける俺に困った様に笑う。
「名前だけでも、駄目かな?」
名前を言えば逃げられるだろうか。チラリと顔を見ると未だ彼は俺の反応を笑顔のまま待ち続けていた。
「小野寺勇…。もういいだろ。」
「もう少しだけ。少しだけで良いから。お願い!」
手を合わせて頭を下げられる。必死な様相に俺は罰が悪くなって顔を逸らした。
「…無理だ。」
「…どうして?」
「意味は、無い。」
「そう…。」
気まずい沈黙が幾らか流れる。学校の廊下何だから一人ぐらい通ってもいいんじゃないかと思うが、此処にはこの二人以外の人間が現れることは無い。
「じゃあ、これだけ。君は何も言わなくていいから。これだけ聞いて欲しい。」
そうやって念を押された。
これが柊の言う危険な状況なのでは無いか。俺は今からでも彼から背を向け、長い廊下の先まで逃げなくては行けないのではないか。
彼が作り出す重たい空気に俺はそう思わずには居られなかった。
「小野……勇くん。君が好き。好きになっちゃったんだ。…許してね。」
切なげな笑顔でそう言われた。
「嘘、だろ…。」
俺は手で口を覆いながら、聞いてしまった会話に取り乱しそうになった。
教師から押し付けられた荷物を準備室に運び終えた時、聞いてしまった。俺の好きな彼奴と知らない男子生徒との会話を。
迂闊に入ってはいけないのだと、俺は察した。そうすれば、もしかしたらあの温厚な彼も怒るのではないか、そう思った。
そうして、聞いてしまった言葉だ。
「勇くん。君が好き。好きになっちゃったんだ。…許してね。」
ドア越しに聞こえた彼の声に俺は歯ぎしりをした。
俺の方が先だったのに。なぜお前が。
「……小野寺、勇。」
顔の知らぬ男の名前を口にした。腹の奥から上がってくる黒い感情が、俺を支配した。
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