第十話 不似合いな男

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「…ただいま。」 そう小さく呟いた。勿論、部屋の電気は付いているし、なんと言ったらいいか分からないけれど、彼の気配がちゃんとした。 「おかえり、ご飯は?」 「食べてない。」 「そう…。」 寝てたからかもしれないが、朝ご飯を食べてから何も口にしていない割には全くと言っていいほど、お腹に違和感は無かった。喉も渇かない。 「…取り敢えず、ご飯食べる?」 「いや、ちゃんと話したい。」 真っ直ぐと見詰めると、柊は恐れるように目を見開いた後、俺から視線を逸らした。暫くそうしていたが、チラリと一度こちらを向いた後、はぁ、と息を吐いて、分かった、それだけ小さく呟いた。 柊は正座、俺は膝を抱えて、二人で床に座る。空気は相変わらず、重苦しい。 「…ごめんね。」 暫く沈黙が続いて、柊が小さく呟いた。下を俯いて、罰でも受けるような表情でいる。何となくそれが嫌で、俺は顔を顰めた。 「焦ってたから、って、言い訳でしか無いけど…待ってくれるって言った勇を急かした。ごめん。」 補足する様に淡々と言葉を紡いで、また謝罪の言葉を口にする。そんなの、あぁ、そうか、俺も悪かった、と言って済ませればいい筈なのに、この時は全然納得がいかなくて、下手に出ている様な言い方をしている柊が気に入らなくて、目の合わない此奴は一体何を考えているのだろう、いつも通りの静かな感情の中で何かが渦巻いている様なそんな感覚に陥る。 「…柊、俺はお前の告白を直ぐには受け入れられない。軽蔑とか、そんな感情は勿論無い。しかし、今まで友人だった者に、恋愛を当て嵌めるのは、俺には難しい。」 柊が少し傷付いた顔をしたのに気付き、俺は少々罰が悪くなる。でも、これが事実で、変えようの無い、俺の中での今の柊だった。 暫くの沈黙の後、柊は何かに諦めたように目を閉じると、また口を開いた。 「うん。分かってる。だから、ごめ…」 「俺は謝罪されたくて、今こうしているんじゃない。」 努めて、柔らかく言ってみたが、柊の顔は青くなるだけだった。逃げたい、そう顔に書いてあるようだった。柊を喜ばせる、笑わせる、いつも通りの関係になれる言葉を選ぼうとして、俺は一呼吸置いた。自分が決めたのだ、『話し合う為に来た』のだと。 「……今、答えを出したら、この関係を壊してしまう様で、嫌だったんだ。」 やっと、柊と目が合った。光が入ると茶色く透ける綺麗な瞳が驚いた様にこちらを見ていた。 「俺はまだ、友人でいたい。」 目が合ったまま、呼吸音すら聞こえない静かな空間が広がる。柊は軽く息をすると、ゆっくりと口を動かした。 「……勇が好き、だけど、それを伝えてこの距離を壊すつもりは無かったよ。ただ、もっと近付きたくて、もっと勇の大切な人間になりたくて……。心のどこかで、多分勇は付き合ってくれると思ったのかも、しれない。だから、動揺して、焦って、このまま変わらなかったらどうしようかと思った。」 いくらか柊の強ばっていた表情が穏やかになった。 前は茶化されて、そのまま押し切られて、結局大した話し合い等出来ていなかった。だから、こんな状況に陥ってしまったのだと思い知る。 「俺は変わるのが嫌だった。今のままが落ち着くんだ。変わってしまったら、どうなるのか分からない。当たり前に柊が居る事が俺の日常なんだ。」 柊がクスリと笑った。この状況でどこに笑う要素があったのか、そう思いながら唖然と柊を見つめた。 「…いや、ごめん、何かさ、嬉しくて。勇が思ってる事を話すなんて中々ないから…。」 そもそも、こうやって話し合おうと言って話す事すら初めてだ。口喧嘩すらもした事がなかったし、お互い疑心暗鬼になることは無かった。俺はこの距離感に甘え過ぎていたのだろう。 「俺は、柊が居てくれて良かった。でも、この関係を変える勇気は無い。だから、待ってくれないか。」 もう一度、前言った応えを繰り返した。それに柊は微笑んで、言葉を続けた。 「うん、待つよ。粘り強くね。」 久しぶりに見た笑顔に安心した。やはり、柊の隣は安心する。もし、柊が友人でなくなったとしても、この事実は変わらないのだろうか。 まだ、踏み切れない一歩に後悔しながらも、俺は柊が許してくれた事に安堵した。
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