第十一話 透明人間

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「どうしたの?」 嘲笑うように猪塚に問われた。こいつが一体何をしたいのか、分からずに呆然とする。口では好きだと言いながら、猫を被って、更にはこの表情で俺を弄ぶ。 「何で、って顔してるね。でもね、勇君が好きだから。理由はそれだけなんだよ。」 小さい子でも宥めるように猪塚は言った。 好き、柊からも聞いた言葉だが、別物のように聞こえた。どちらが良いか、悪いかは判断出来ないが、どちらもべったりと俺の体にまとわりつくものであった。 「響介君はもう居ないよ。柊君が乗っ取っちゃったから、ね。」 「…何のことだ。」 「惚けないで欲しいな。それに、そんな表情でしらばっくれられても、困るのはこっちだよ。」 心臓が煩いくらいに体の中に鳴り響いていた。それはまるで警報のようでもあって、俺は彼がとてつもなく恐ろしいものに思えて堪らなかった。 「いや、俺もね。不思議だったんだよ。最初会った時、あれ、って。でもね、確信したんだ。彼はいなくなっちゃった。でもきっと、彼はしぶとい奴だから、勇君の中に残ってるんだろうな、って思って。だって、おかしいよね。勇君は自分を構う人なんて、近付く人なんて、嫌いな筈なのに。でもさ、こうなら理由は簡単だ。勇君は、柊君に響介君の面影を重ねている。そういう事だろう?」 確信するような笑みで俺を見下ろしている。月明かりが彼の背中に当たっていた。彼の顔には影が落ちていた。俺は固唾を呑み込んだ。しかし、瞬きする事は出来なかった。冷や汗が背中を蔦る。 「…な、んの事だ。」 暫くの沈黙の後、掠れた声でまた同じ事を言った。彼はふふっと笑った。こと状況で笑う意味が全く分からなかった。 「結局さ、柊君は響介君を君から奪ったのに、善人面して隣に居るんだよ。見えてないんだよ。彼は。」 確かに、響介と呼ぶのを躊躇った。夢の中にいる彼が、俺にとっての大切だったということも、感じている。しかし、今までの柊を否定するには、俺は彼を信用し過ぎていた。彼の隣が落ち着く理由、そんなの考えたことが無い。 笑っている方がいい。黙っている彼の隣に居るのが心地好い。響介は夢の中で〝ごめん〟と繰り返し、静かに俺が隣にいることを許してくれていた。合点がいって、でもそれを受け入れたくなくて。 「勇君。俺は君が好きだよ。響介君はもう居ない。残ったのは姿形だけ。中身は別物だ。彼に固執するくらいなら俺を選んでよ。彼の事、絶対忘れさせてあげるから、ね。」 笑う柊が俺の名前を呼ぶ瞬間が頭に過った。それと同時に、俺にいつも背中を向ける響介が振り向く姿が重なった。 「あ、やっと見つけたー!」 勇が迷子になって、数十分。漸く、広場の中に彼の姿を見つけた。明るく光る提灯とその下で踊る人々、そして、真ん中で太鼓を叩いている人、それらをぼうっと見つめていた。その様子に何処か違和感を覚えた。 「勇…?」 不安げに名前を呼ぶと、彼は此方を見ずに、迷子になって悪かった、と言ってくる。疲れているのだろうか。心做しか表情も暗く見えた。 「人多い所は駄目だね。手繋いどかないと、はぐれちゃいそう。」 気付かぬ振りをして、努めて明るい声を出す。しかし、勇は何処か上の空で、この短時間に何があったのか、と不安を覚えた。 「柊、帰ろう。疲れた。」 矢張り、こちらを向かずに、そう言った。それも疲れているせいなのだろうか。 「うん。」 楽しかったね、また来ようね、とは言えずに帰路に向かう。手を繋ごうかとも思ったが、なぜだかそれも憚られた。
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