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トニックシャンプーの匂いの男性に合ってから一ヶ月が経とうとしていた。
シャーシャーと、どこかから蝉の声が聞こえる。風はほとんど感じなかった。白杖を持つ右の手の甲がジリジリと熱い。ボンヤリと見える光が眩しい。夕子は毎日のようにあの一番線のホームで待った。雑踏の中で。トニックシャンプーの匂いを待つ。
一番線の電車が発車します……。
夕子はこのアナウンスを合図にホームを降りることにしていた。
――さあ、帰ろ……。
点字ブロックを探り方向を確かめる。手のひらにスーツと感じるのは誘導ブロックだ。
肩先に誰かの肩が触れる。四方から雑踏を感じた。白杖の先がトンと滑る感じがした。
足下でコロンという音がした。
――あっ……。
目の前が真っ暗になったような感じがした。
夕子は膝をついて手で探る。熱気で熱くなった固いコンクリートを感じた。靴の音が大きくなった。
「ほら、こんな所でしゃがむなよ。おいっ」
中年男の声が吐くように言った。
コロ、コロン……。
白杖の音が遠ざかった。
「ああ、すみません。すみません……」
夕子は何度も頭を下げた。視力が弱い者にとって白杖はその者の目だ。目の前が真っ暗になった。
「すみません、すみません……」
と言う声と共に、あのトニックシャンプーの匂いが近づく。
「あの……」と、肩を軽く叩かれた。
「僕に掴まって……」
聞き覚えのある声だ。すうっと身体が浮き上がる。確かにこの駅で助けてもらった男性だ。
夕子は男性に引かれた。
すっと歩を進んだ。
「あ……以前ここで……ありがとうございました」
「えっ、はい……僕が分かるんですか? あ、僕の方こそ……」
「え……」
「あなたが、雨が降るかも、っておっしゃったのでコンビニで傘を買ったんですが、夕立が降り出して……」
「……よかったです。お役に立てて……あの……足、大丈夫ですか?」
「え……? 分かるんですか?」
「この前に比べて肘が上がっているような……」
少し上がった男性の肘は、歩を進める度に上下に揺れていた。
「ああ、実は、この間右足、捻挫しちゃいまして……」
男性の声が恥ずかしそうに笑った。
「ね、捻挫? 大丈夫ですか? ご、ゴメンなさい。もう、私……」
夕子の手のひらに白杖のストラップが触れた。
「ここから真っ直ぐ歩いて、五、六歩の所にエスカレーターがあります」
「あ……、ありがとうございました」
――この人は、きっとボランティアの人なんだろうな。
「いいえ……っと、あの名前……」
男性の声が小さく言った。
「はい、立花……立花夕子です。あ、はじめまして……」
夕子が笑いながら、満面の笑みで戯けてみせた。
「僕は安倍光です。あ、あの……立花さん……また会っていただけますか?」
安倍の恥ずかしそうにな声がした。
「会って……えっ、あ、ぜひ……」
シャーシャーという蝉の鳴き声のボリュームが上がった。
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