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美容室
夕子は電車を降りた。乗車した駅から三十分ほどの場所だ。
シューと扉が開く。風が草の碧い匂いと土の匂いだ。人の行き交う音もほとんどない。ここが同じ日本かと思うくらいに、まるで、異次元にでもタイムスリップしたようだった。
カランコロン……。
優しい空洞ある木を叩いたような音。コンビニなどで聞く人工の入店音にはない優しい響きだ。そして、ドライヤーで頭を乾かしたときの匂い。
――美容室……? 安倍さんの……?
「立花さん、ここへ……」
肩を軽く押される。膝に柔らかい座面が触れる。
――椅子……。
「あの……立花さんの髪をカットさせてください」
安倍が唐突に言った。
「あ、はい、お願いします」
パサっという音がした。フワリと布が首の周りに掛けられるのが分かった。
「あの、どのように……致しましょう?」
夕子の髪がフワリと浮き上がり、空気を含んでフワリと夕子の肩に着地した。
「あ、じゃあ、広末涼子ちゃんみたいに……」と夕子は笑いながら言ってみた。
「はい、分かりました」
「え……出来るんですか?」
夕子はトニックシャンプーの匂いの方向を見た。
「出来るだけ最善を尽くします」と安倍の声が笑う。
チャチャチャというハサミを入れる鉄の音と、パラパラと髪が滑り落ちる音が交互に聞こえる。
ドライヤーの轟音が止むとブラシが夕子の胸元を走った。夕子の肩に手が掛かる。
「お疲れさま……」
夕子の背後で安倍の声が聞こえた。
「あの、髪……いいですか。触っても……」
「ああ、どうぞ……」
自分の髪が広末涼子になったか、否かは問題ではなかった。夕子は自分の髪を撫でてみた。毛先が手のひらに触ってこそばゆい。
「……ちょっと、男の子みたいじゃないですか?」
「ああ、かも知れませんね。だけど、僕は似合っていると思いますよ。とても可愛らしいです」と、安倍の声が静かに答えた。
「……ならよかった……」
夕子は笑いながら言った。
「……立花さん……」
安倍の真面目な声が更に真面目に聞こえた。目の前の光が遮られたのが分かる。夕子も真面目に返した。
「はい……」
トニックシャンプーの匂いが近づいた。
――あ……。
温かく柔らかい唇が触れた。夕子は目を閉じた。
「んっ…………っっ」
唇はすぐ離れ、再びそれが触れる。
自分の手さえ、どうするべきなのか未経験の夕子には分からなかった。
上唇を何度も啄まれる。その都度、チュと短い音を立てる。夕子の唇の先がプルンと震える。それを安倍の唇が啄む。
安倍の手が夕子の背に回った。安倍の身体に引き寄せられる。
夕子も安倍の筋肉質を感じる背に手を回す。
息苦しかった。先日より長いような気がした。
どちらからともなく、スッと唇が離れた。トニックシャンプーの匂いが遠ざかる。唇が冷たい。音が聞こえるのでは、と思うほど胸が高鳴る。胸がキュンと切なくなった。
すっと、髪に安倍の指が通った。
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