君の光になる。

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君の光になる。

 立花夕子(たちばなゆうこ)は自分の顔を見たことがなかった。  母親によると1歳半まで見えていたそうだ。なので、夕子は自分の顔を見たことがないというより、覚えていないというのが正しい。  ただ、彼女は全く見えない暗闇の世界ではなく、光はボンヤリと感じている。誰かが通ると「誰かが通った」くらいは知ることが出来る。    :   「……十五……十六……十七……」    夕子は歩数を数えながら、白杖で点字ブロックを探りながら歩を進めた。駅のホームに上がるエスカレーターを降り、夕子の足で十九歩目の場所に彼女が乗降する場所がある。カッカッカッという点字ブロックを撫でる音が急に途絶え、トンという音に変わった。    ――あ、あれ?    白杖で再び探る。トンという音……。手の感触からすると柔らかい物だ。 「あら、ゴメンなさい……」    少ししゃがれた声の感じから、夕子の今年五十五歳になる母親くらいの声色だ。品のよい声だ。   「いえ……私こそ大切な荷物……叩いちゃってすみません……」    夕子は白杖で辺りを探る。    再び、トンと音が聞こえた。目新しい革の匂いだ。夕子が嗅いだことのある匂い。恐らく、学生カバンだ。    夕子は自分がどちらから来てどこに行こうとしているのか、方向を見失ってしまった。    夕子の背後の方で「チッ」と舌打ちが聞こえた。    どこからか「見えないんなら、独りで歩かなきゃいいのに、なあ」と、言う声が聞こえる。   「まもなく、電車が参ります……」と、言うアナウンスのあと、線路からの小さな振動を感じた。    金属が焼けるような匂いがした。その中に微かなトニックシャンプーのような香りがした。   「あー、僕に掴まって……ください……」    若い男性のような声だ。子供ではない。爽やかなトニックシャンプーの匂い。   「え、私……ですか?」    と、夕子が言い終わるまもなくトニックシャンプーの香りが近づく。    ――お父さんと同じ匂い……。    トニックシャンプーは、これが爽やかで気持ちいいのだと行っていた父親と同じ匂いだ。先日病で亡くなってしまったが……。その時、夕子は電車で三十分ほどの場所にある霊園に、父親の墓参りに行く途中だった。    その匂いの元を探る。肘の骨ばった感触。身体が浮き上がるように足が進んだ。すうっと身体が引っ張られる。しかし、恐怖心は微塵もなかった。   「荒っぽくてすみませんでした。ここはあなたのいらっしゃった列の最後尾です」    と、夕子を引く力が弱くなった。    生温い風が夕子の髪を揺らす。    油や埃の混じった空気の匂いが夕子の鼻腔に広がる。この匂いは雨の降るときの匂いだ。   「あの……今って、雨……降りそうですか?」   「いや……まだ、陽が照ってますよ……」   「あっ、そうなんだ。雨降りますよ。もうすぐ……」    夕子は声の方に満面の笑みをしてみせた。夕子の知らない笑顔。「前歯を見せるといい笑顔になる」と父親が教えてくれた通りに……。    蒸すような熱気で自然に汗ばんだ。   「あ、じゃあ、僕は……。えっと、気をつけて……」    トニックシャンプーの匂いがする方に、夕子は小さく頭を下げて手を振った。コツコツと踵のある靴の音が雑踏の中に徐々に遠ざかる。爽やかなトニックシャンプーの匂いが遠くなった。    頬に感じる風が強くなる。    一番線に列車が入ります……。    キューンと軽い電子音のあと、プシューという息を吐き出す。列車が滑り込む音だ。雑踏がゴソゴソと動き出す。ナイロン素材のような匂いがするその中に、夕子も押し込まれるように雪崩れ込む。
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