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「ええ……だけどあの人ときたら、酒癖も女癖も、どうしようもないほど悪くって。私が責めると、今度は開き直った態度で、俺を選んだのはおまえだろう、って言うんです。もう、許せなくて。それで、離れて暮らすことにしたんです」
オレンジの明かりの中に、上品な家具が立ち並ぶ一室。S夫人は紅茶のカップを片手に、記者の男に向かって話している。
「なるほど。しかし……こう言っては失礼ですが、そんな理由で、ですか?」
記者の男が尋ねる。
「もちろん、いきなりこんなところまで来たりはしませんわ。色々経緯があるんです。今からお話ししますから……」
S夫人は紅茶を一口すすり、語り始めた。
「別居を決意した時、私たちは東京に住んでいました。私は、離れて住むにしても、あの人と同じ東京で暮らすなんて絶対に嫌だと思い、大阪まで逃げました。そして、しばらくはそこで働いて、アパートも借りて、生活していました。でもその頃はちょうど、第4次世界大戦の真っ只中でした。街を歩いている時に、ひとりの政治家が演説しているのを見かけました。その人がこう言ったんです。『外国の脅威が強まりつつある今、内部のことで揉めている場合ではない。我々は皆、同じ日本人ではないか。今こそ日本全体が一丸となって戦わなくてはならない』と。それを聞いて私は思いました。そうだ、私もあの人も同じ日本人なんだ、って。そう思うとどんどん憎しみが込み上げてきて、あの人と同じ日本にいることに、耐えられなくなったのです。だから私は、日本から遠く離れた国に引っ越しました。もちろん相当な費用がかかりましたが、移住先の国は治安も良く、戦争も無く平和でした。その国の人々はみんな優しくて、右も左も分からない私に親切に接してくれた上に、私のような外国人でも働ける場所まで紹介してくれました。私は毎日、人々の優しさと自分の幸運に感謝しながら、幸せに過ごしていたんです。でも……」
S夫人は紅茶を一口すすった。
「そうして何年か経ったある日の朝のこと。私はいつものように新聞を読んでいました。その日の見出しは、当時深刻化していた地球温暖化と大気汚染の問題についてでした。各国リーダーのコメントが並んでいましたが、どれも、○○国から排出されるガスのせいだとか、××国が秘密裏に兵器を製造しているのだとか言って、お互いに責任をなすりつけ合うばかりでした。そして最後には、記事を書いた人自身のコメントがあり、それはこんな内容でした。『新聞記者として死ぬ覚悟で言わせてもらうが、諸国のトップどもはバカばかりだ。温暖化も大気汚染も、どこか一つの国のせいじゃなく、どの国にも責任があるはずだ。だから、いがみ合うのはやめて、今こそ地球人全員が一体となってこの問題に取り組むべきなのに。奴らは、協力し合うどころか、戦争を止めるつもりすらない。全く、さっさとこんな星出ていきたいよ』というふうな。私も、その通りだ、と思うと同時に、また憎しみが込み上げてきて…………」
黙って聴いていた記者は、なるほど、と頷いた。
「そういうことでしたか。それならまあ、納得できないこともないですね」
S夫人は時計に目をやり、慌てて謝った。
「すみません。私ったら、気づいたら長々とおしゃべりしてしまって。番組の尺は、大丈夫でしょうか」
「いえいえ、全然大丈夫ですよ。視聴者の方々も、大変面白いお話を聞けて喜んでもらえたことでしょう。Sさん、本日は貴重なお時間をいただきまして、ありがとうございました。それでは、私はこれで失礼いたします。視聴者の皆さん、また来週の『なぜ、火星に』でお会いしましょう!」
画面が切り替わると記者はいなくなり、ニュース番組が始まった。緊張から解放されたS夫人は紅茶を一口すすり、ほっと息をついた。テレビからはアナウンサーの声が流れている。
「ここのところ地球上の至るところで続発している大地震ですが、専門家の話によりますと、宇宙空間に存在する暗黒物質の影響ではないかということで、今後は地球に限らず様々な星同士で協力し合い、宇宙一体となってこの問題に立ち向かうことが重要だと………」
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