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第3話
愕然とした。仁王立ちした姿からは想像できないくらいに顔を横に傾けて、瞳をキラつかせての「ダーリン?」は一瞬で周りの空気を凍りつかせた。
見ていた菊池さん、河野くん、森さんスタッフ全員だ。否、その女の後ろでコーヒーを飲んでいるスーツのサラリーマン男性もコーヒーコップを口につけて固まっていた。
中にはニヤけてこちらを覗きこむ仕草の朝の忙しい最中を抜けての一息ついていた中年奥様らしき二人もいる。
だけではない。俺が一番愕然として固まった。
そしてそれを平然として言いのけるこの女は、一体何者なんだとも思った。
次の瞬間に驚くべき一言が今度は首を左に傾けての言い放った。
「ねぇ、デートしない?」
なんなんだ。この女は……。拍子抜けして開いた口が塞がらないとはこの事だと改めて思う瞬間でもあった。
「どうなの?」
答えに困っていると続けざまに聞いてくるその女は、尚且つ赤いヒールをツカツカと鳴らし、テーブルに戻る。戻るや否や、バッグを持ち、俺にバッグの中から出したものがあった。それをみて俺は呆気にとられた。
「はっ?」
それは茶封筒だ。明らかに金が入っているであろう封筒だ。そんなものを差し出されてすぐに受けるとアホはいないだろう。
いや俺もアホだ。だが、それは絶対にないと言い切れる。だってだ。だって、知り合ったのは一昨日の夕方、そして今日この朝の時間帯で二回目だ。
尚且つここは俺が働くカフェだ。そんなところで俺がその封筒に手を出してもみろ。そんなことをすると警察に御用となるか、否、御用とまではいかなくとも、菊池さんや河野くん、森さんたちが集りにくるに決まって……。
「受け取んないの? 副店長?」
その言葉は河野くんのしらけた言い草。それみろと言わんばかりの言葉だ。お前が受けとらなければ俺が受け取るぞと俺の横につけて手を出す準備は万端といいたいのかこいつは俺に向けて、一瞬だけニヤついた。
「あっこういうのはね? 河野くん。受け取る受けとらないの問題じゃなくてさぁ」
普段使い慣れない標準語で話してみたところで後の祭り。
その女もニヤけている。否、微笑んでいるのか? 俺には女神に見える。その封筒には百万ぐらいの金が入ってそうなぐらいの分厚い封筒。
「あっじゃあ……」
そういう言葉を投げかけてみて差し出された封筒へと手が伸びそうになった。否、待て待て。ここは大人の対応だと、俺の理性が働く。
否、待て待て、俺にはちょっとした借金があるだろう? 幾らだっけと頭の中で計算する。
この間、十五万のマウンテンバイクを「一緒にサイクリングしたら楽しいよ。今度どうよ?」などと店長の勝田さんに言われてしまった事を思い出す。
………と。
「あ・げ・な・い」
急に女は俺が思わず手を差し出そうとした瞬間に引っ込められた。そして……。
「こんな端た金じゃあね……。本当にありがとうございました。先日は本当に助かりました。なんとお礼を言っていいかわからずに見つけた瞬間に思わず力んじゃって、強い言葉を吐き出して、おまけにダーリンだなんて……。迷惑ですよね。ごめんなさい。今日は帰ります。またお邪魔しますね」
と、差し出しかけた俺の左手はぎこちなくズボンのポケットへとしまわれた。そして女は封筒をバッグに仕舞い店を出て行った。
その後が問題だった。客も含めてスタッフが大笑いしている。菊池さんなどは腹を抱えて笑っているのだ。
「ねぇ、副店長さん。どこで知り合ったんですか? アハハハハッ! ウケるッ!」
「そうですよ。メッチャ美人なのに、あの対応……。副店長やられちゃったね?」と河野くんの言葉だ。
イライラした俺はキッチンへとそそくさと消え去った。そしてその後もしつこく何度もスタッフ達がどこで知り合っただの、彼女にしたいんでしょうだの、顔がデレデレだのと完全にアホ扱いされて半日を過ごす事になった。
夕方、本社から勝田店長の電話をうけた。
明日久しぶりに「店に顔出すからよろしく!」と一言だけ。
何の電話だと思って苛立ちを隠せずに電話を切ると、夕方のスタッフが続々タイムカードを押しにスタッフルームへと現れる。そしてどこで聞きつけたのか、この世の中、情報社会だと気づかされた。
夕方俺と同年代の28歳、女性スタッフの長谷部さんがスタッフルームに来るや否や「副店長に彼女できたんですか?」とニヤけながら聞いてきたのだった。
「誰から聞いたんや?」と返す。
「もう店中の噂ですよ。知らない方がおかしいですよ」
スタッフルーム入り口を指差した。その扉の裏側を見てみると、副店長の彼女見参! と書かれたA4のコピー用紙が貼られてあった。
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