忘れられていた記憶

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 誕生日が怖い。  三十路へのカウントダウンが迫っているからとか、おひとり様の誕生日だからではない。 亜季はまだ二十三歳だ。新卒で大手不動産会社に入社し、今は丸の内OLを楽しむ日々を過ごしている。ついでに言えば学生時代にモデルのアルバイト経験のある容姿で、教師をしている三つ上の優しい彼氏・拓もいる。SNSでもインフルエンサーには及ばないものの、OLにしては多いフォロワーを抱えている。亜季が友人との女子会の場をセッティングすれば、友人たちは口々に亜季のセンスの良さを褒めてくれる。 誰がどこから見てもリア充OLだ。  誕生日も幸せそのものだ。学生の頃は当日に彼の仕事の都合が合えば、彼と会った。誕生日前後には友人たちがレストランを予約して誕生パーティーを開いてくれる。ハッピー・バースディと書かれたデザートプレートとプレゼントはマストだ。家族もケーキを買って、亜季の帰りを待っていてくれる。  問題は家族と彼、友人以外に亜季の誕生日を祝っている人がいることだ。 「誕生日に玄関の前に花束が置いてあるの?」  恐怖に耐えかねたふりをして、拓にカミングアウトしたのは先日のデートの最中だ。亜季は就職してから一人暮らしを始めた。だから今年も秋の誕生日に花束が玄関先に置いてあることはないはずだ。そう言えば優しい拓は当日一緒に過ごしてくれる公算が高い。 「うん。高校の頃から毎年、誕生日の朝か夜に必ず」 「毎年!? 不審者とかストーカー?」 「ううん。他は何もないの。誕生日にだけ、青い花束置いていくの」  ほら、拓はもう心配してる。あと一押し。 「青い花束って珍しいな。どんな花?」  うっと言葉に詰まる。拓は高校で理科を教えている。植物は確か生物の範囲だから、多少の知識があるのかもしれない。それに対し、亜季は花の名前はよく知らない。毎年、誕生日に玄関先に置かれる花束も気持ちが悪くて速攻で捨てるからどんな花が包まれているのかはよく見ていない。ただ毎年同じ青い花なのはわかっている。 「ごめん、怖くてどんな花なのかは見てないんだ」 「そうだよね、ごめん。亜季の誕生日のあたりだと……」  カフェのオープンテラスで向かいに座る拓がスマホを出して検索を始める。  いや、私は花の種類が知りたいわけじゃない。ストーカーかもしれないから、一緒に過ごそうって言ってほしいんだ。拓はこういうところが結構残念だ。  ちらりと職場の先輩・横川の顔が思い浮かぶ。営業部のエースにしてイケメンの二十八歳、営業事務の三十路の先輩に好意を抱いているなんて噂だ。地味な三十路女が怖いわけでもないだろうに、横川狙いのくせに横川にアピールしようとしない女性社員たちにいらつく。私なら横川を獲りに行くのに。  拓より横川の方がすべてに置いてスペックが高い。ただ横川を獲りに行かないのは、社内の人間――特に女性――関係が面倒くさくなるからだ。三十路の先輩が横川に選ばれればシンデレラストーリーとして自分も期待が持てるのかもしれないが、亜季が選ばれればお局からの風当たりが強くなる。そんなシンデレラストーリーを夢見る暇があればヘアサロンやエステに行って、自分の見た目にお金をかけろと言いたくなる。それをこらえるのは社会人としてのルールだ。 「これ?」  拓に話しかけられて亜季は外向けの笑顔を作って、拓のスマホを見る。画面には薄青の花が映っている。 「そうかも」 「勿忘草」 「草? 花だよ」 「この花の名前だよ。花言葉は私を忘れないで」  失点だ。名前につられて「草?」なんて言ってしまった。女子力がちょっとだけ落ちた気分だ。 そもそも花言葉? なんで拓はそんなの知ってるの? このタイミングで花言葉なんてどうでもいいし。いっそ本気で横川に乗り換えようか。 「花束を置いていった人は、亜季に忘れてほしくないんじゃない?」 「……怖い」  両腕で自分を守るように抱いて目を閉じる。  花束が置かれたのは高校二年生、十七歳の誕生日からだ。あの頃付き合っていたのは誰だっけ。サッカー部かラグビー部か。どちらも花なんて無縁だ。土いじりじゃなくて、部活で土汚れをつけてるタイプだ。 「誕生日、仕事帰りになるけど亜季の部屋に行こうか」  拓の言葉にはじかれたように顔を上げる。  その言葉を待っていた。 「本当?」 「うん。今まではご家族と一緒だったけど、今は一人だし何かあったら怖いよ」 「ありがと。拓、好き」  小首をかしげて見せると、拓は少し照れたように視線を落とす。これは拓が照れた時の癖だ。  拓から誕生日の予定を取り付けた充実感からか、近くできゃあきゃあ言っている女子会の騒音もすずめの鳴き声にしか聞こえなかった。  誕生日当日、朝七時すぎ。ドアスコープから玄関前をのぞき込んでみるも幸い、花束はない。ドアを開けて左右を見るも、廊下には花束はおろかごみ一つ落ちていない。さすがわが社の管理物件。亜季は出勤するため、気持ちよく外に出る。 引っ越したから当然と言えば当然だ。むしろ引っ越しても花束が置かれていたら怖い。本当にストーカーだ。そうでなければ亜季が引っ越したことを知っている人物に限られる。 生まれも育ちも東京で東京以外に住んだことのない亜季だが、高校から今も付き合いがある人物は皆無だ。大学に入ってからは大学でできたオシャレな友達と遊ぶのが楽しかった。彼女たちといると地元の子たちが垢抜けなくてつまらない存在にしか見えなかった。彼女たちの連絡先はスマホからは年々も前に削除した。  今、連絡を取っているのは大学の友人とモデルのバイトをしていた頃の友達だ。彼女たちは高校時代の亜季と接点がないから容疑者から外れる。 「となると、高校の子?」  誰かに恨まれる覚えはない。その当時もリア充だった亜季は異性関係で女子と険悪になったことあったが、あっちも高校を卒業する頃には新しい彼氏がいた。元カレより』ルックスっもよかったから、むしろ別れることになったことを感謝してほしいくらいだった。  考えているうちに最寄り駅に着き、通勤電車で揺られているうちに亜季は丸の内OLになる。そして帰宅ラッシュの電車で丸の内OLの魔法はとける。  ちょっとの残業を終えた亜季がスマホを見ると、拓からのメッセージが入っていた。時間があれば食事をする予定だったが、拓はまだ残業中で亜季の部屋に来るのは午後九時を過ぎるとのことだ。それならと仕事帰りにバースデーディナーになりそうなチキンの赤ワイン煮や生ハムを買って帰る。どちらもインスタ映えすること間違いなしのアイテムだ。ワインは買い置きがあるし、ケーキは拓が買ってきてくれることになっている。拓が来るのが遅いなら今夜は止まっていくだろうと計算して、朝食用のキッシュも買った。  朝は人身事故で電車が遅延し、会社では横川が三十路先輩と付き合い始めたらしいなんて噂も飛んでいたが彼氏と過ごす誕生日を前にすれば些末なことだ。  亜季は二十四歳、拓は二十七歳、交際一年を過ぎた。拓はプレゼントについて何も言ってなかったが、もしかするとプロポーズということもあるかもしれない。亜季の母は今の亜季と同じ年齢で父と結婚した。もっとおしゃれもしたいしSNSのフォロワーも増やしたい。そのためには拓と結婚して子供を産み、オシャレママインスタグラマーとなる手もある。  二十四歳の野望を胸に抱きながら帰宅した亜季はふと思い出し、部屋がある二階への階段を上る途中で足を止める。 毎年、誕生日に置いてある花束だ。あれが今年もあるのか。花束の存在を思い出した亜季は呼吸を整えると、負けないという意思表示のようにハイヒールの音を響かせて階段を上る。引っ越したからと強気にはなっても怖いものは怖い。階段を登り切って二階の中央、亜季の部屋の前を見る。 「……ない」  明らかにほっとして胸をなでおろす。強気なハイヒールの音も、今はハイヒールを履きなれたOLのものだ。バッグからキーケースを取り出して鍵を開け、部屋に入る。部屋に入っても、おかしいところは何もない。  どうやら敵は亜季が引っ越したことを知らないようだ。  第三者に邪魔されずに終わりそうな誕生日に安堵し、亜季は気分よくテーブルセッティング――買ってきた惣菜を並べるだけ――を始める。チキンの赤ワイン煮は拓がくる頃を見計らって、温めてから出す。  化粧直しをしようかと思ったところで、スマホに拓からメッセージが入っていることに気付く。メッセージを受信したのは十分前だ。 『今着いた。これから行くよ』 「今って……もう着くじゃない!」  亜季の家は駅から徒歩十分ほどだ。化粧直しはまだだし、キッチンは綺麗すぎる。料理していないことが明らかだ。焦る亜季を追い詰めるように、インターホンが鳴り響く。モニターを見れば仕事帰りらしく、無難なスーツ姿の拓が映っている。  バースデーディナーがすべて買ってきたものなのは、誕生日だしちょっと贅沢したかったからって言えばいいよね。  かわいい言い訳を考えて、「はーい」と高い声でドアを開ける。 「いらっしゃー……」  ドアを開けて目に飛び込んできたのは青い花が包まれた花束だ。毎年、亜季の誕生日に置いてあった花束と全く同じものだ。確か名前は勿忘草。 「どう? 驚いた?」 「びっくりしたよー。もう拓ってば、冗談きついー」 「今年も僕からのプレゼントだよ。勿忘草」 「……も?」  花束の上にある拓の目が笑っていない。いつも穏やかな拓のこんな目は見たことがない。それに去年の誕生日はハートがついたネックレスをくれたはずだ。 「宮代樹里」 「え?」 「覚えてないんだね。僕にとっては妹のような子だった」  宮代樹里? 拓の名字は今井だ。宮代って誰?  困惑する亜季に拓は忌々しそうに口をゆがめる。 「きみが高校の頃、イジメて自殺に追いやった子だよ」  拓の言葉に記憶がフラッシュバックする。  高校の昇降口だ。部活をサボってデートに行こうとした亜季を追いかけてきた同級生に、亜季は何かを言った。彼女はひどく傷ついた顔をしたけれど、その日の亜季は虫の居所が悪くて徹底的に潰してやりたい気分だった。だからつい持っていた上靴を――。 「あれは、つい……」 「あれってどれ? 一度だけみたいな言い方だけど、きみは樹里に向かって何度も暴言を吐いているんだよ。そして耐えられなくなった樹里は自分の誕生日に自分の命を投げ出した」 「そんなの、知らない。私は……」 「樹里のことを忘れないようにと俺なりに考えて、毎年きみの家に勿忘草を置いてきたけれど無駄だったようだね」  勿忘草の花束が足元に転がる。その代わりに拓が手にしているのはバタフライナイフだ。逃げなきゃと思うも、バタフライナイフに恐怖を感じて体が動かない。 「きみが樹里のことを忘れても、俺は樹里のことを忘れない」  腹部に何かが当たったって腹部を見ると、拓が握ったバタフライナイフの柄が見える。柄の先は当然ながら、亜季の腹部の中にある。じわりと服の左側が血を吸って重くなった気さえする。 「……拓、痛い」 「樹里はもっと痛かった」  亜季が助けを求めるように拓の肩に手を回そうとすると、当然のように振り払われる。拓が亜季を見る目は人を見る目ではない。道に落ちているごみの方がまだきちんと見てもらえそうだ。  拓がドアノブを開けるようにバタフライナイフを動かすと、亜季の口からは悲鳴にならない声が漏れる。 「俺はきみを愛していないし、きみも俺を愛していない」 「……そんなこと、ない……」 「リア充アピールの道具だろ」  拓は思いきりバタフライナイフを引き抜き、体の支えを失った亜季はその場に崩れ落ちる。拓は亜季の髪をつかんで顔を上げさせる。亜季が顔を上げた先では、拓がいつもの穏やかな笑みを浮かべている。 「一つ教えてあげよう。高校時代の友達はきみが疎遠にしたんじゃない。きみが疎遠にされたんだよ」 「嘘……」 「俺にきみのことを教えてくれたのも彼女たちだから」  拓に手を離されて、亜季は顎をコンクリートの床に打ち付ける。口の中に血の味を感じる。 「樹里のことを思い出してくれてありがとう。ゆっくりおやすみ」  拓の言葉を聞いたのを最後に、亜季はゆっくりと意識を手放した。 翌朝、隣人によって遺体となって発見された亜季の枕元では勿忘草が揺れていた。
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