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1 九月十八日(一週間前)
間抜けなほどに青一色に染まった空を、一点の赤がゆらゆらと横切ってゆく。子供の手を離れて漂う風船だった。まるで枷から解き放たれて、自由になった身を歓喜で震わせるように、風に揺られながらなおも高く舞い上がってゆく。
そのはるか下で、子供が泣き喚いていた。見たところ、まだ五歳にもならないだろう。まだどこかぎこちない歩みで、届かぬ手をいっぱいに空に伸ばしながら、失ってしまった風船を虚しく追っている。
俺はそれを柱の陰で見ながら、ちっと小さく舌打ちを漏らした。いったい親は何をしている。さっさと黙らせてどこかへ連れて行け。これでは、目立って仕方がない。
昼下がりのデパートの屋上。とはいえ平日とあって、人の姿はまばらだった。九月に入ったとはいえ、まだ真夏のような残暑が続いているせいもあるのだろう。人混みに紛れるつもりが大きな誤算だった。
それだけに子供の大声は耳目を集める。鏡のように凪いだ水面に高く水飛沫を立てるようなものだ。頼むから静かにさせてくれ。俺はそう念じるようにつぶやく。
その声が届いたわけでもないだろうが、すぐに母親と思しき太った中年女が駆け寄ってきて、子供を抱き上げた。それでもまだ子供は泣き止もうとしない。
「だからちゃんと持ってなさいって、あんなに言ったじゃないの」
そう言って母親は子供を叱る。苛立ちと、慣れと、ほんの少しの愛着を滲ませた声で。人によってはそれを愛情とでも呼ぶのかもしれないが、俺としては到底そんな言葉を使う気にはなれなかった。ただ血が繋がっているというだけで、そんなものが自然に生まれてくるほど、人間というのはおめでたい生き物ではない。それを俺は嫌というほど思い知らされている。
「いいから、さっさと連れて行け」
口の中で、そう繰り返した。はたして、子供の泣き声がゆっくりと遠ざかってゆく。俺はほっと安堵の息を漏らすと、遮蔽物にしていた柱に背中をもたれかけた。
「なぁーりたちゃぁん、みぃーっけ」
粘つくように間延びしたその声が耳に入ったのはそのときだった。首筋にぷつぷつと怖気が走るのを覚えながら振り返る。右頬から額にかけて入った蛇のタトゥー。鼻と左眉と舌先にリベットを打ち込んだような金色のピアス。新種の珍獣じみたその顔にべったりと張り付いた軽薄な笑み。橋口だった。橋口正義。この異様な風体にはまるでそぐわない、堅苦しい本名を持った男。
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