11 十月三日(十日目)

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 影がいっそう近付いてきた。俺を飲み込むように、あるいは優しく包み込むように。気が付くと、俺は黒い影に柔らかく抱きすくめられていた。 「かわいそうなお兄ちゃん」  影が言った。ぼやけていた視界が徐々に焦点を結び、すでに見慣れはじめていた顔が浮かび上がる。細く真っ直ぐに通った鼻梁。やや尖った顎。口元に小さな黒子。真島弥生だった。けれどその顔に浮かんでいる表情は、いつもの能面のような硬いものではなかった。恍惚とした、夢見るような笑顔。それはあのとき、身体を重ねたあとで見せた顔と同じで。 「でも大丈夫よ。わたしが今、自由にしてあげるから」  その指先には、先ほど俺が投げた小さな鍵が摘まれていた。ああ、ありがたい。これで俺は解放される。どこへでも行ける。そう歓喜した心の奥で、もうひとりの俺がやめろと叫んでいる。駄目だ、やめろ。俺を自由にするんじゃない。いったい何のために、自分で自分をここに繋ぎ止めたと思ってる。  おぎゃあ、おぎゃあ。赤ん坊が泣いている。  やめろ。俺を放っておけ。俺の中で俺が叫んでいる。  それなのに俺は、涙を流しながら弥生に感謝している。ああ、ありがとう。俺を早く解き放ってくれ。俺は行かなきゃならないんだと。  すでに俺は、完全にふたつに引き剥がされていた。此方と彼方。もうどちらが自分なのかもわからない。  かちりと音がして、右手を締め付けていた力がなくなった。俺は戒めを解かれて、飛び込むように弥生の胸へと倒れ込む。彼女は両手を広げて俺を受け止めてくれた。闇のような黒衣に完全に飲み込まれて、それでも俺は少しだけ呼吸が楽になったように思えた。 「……行こう、お兄ちゃん」  やめろ、と俺は言おうとした。けれど俺の口は、まるで別の言葉を吐き出していた。 「ありがとう……やよい」 「いいのよ、お兄ちゃん。さあ、これを持って」  彼女はそう言って、俺に何かを握らせようとした。しかし俺の指は反り返るように突っ張ったままで、すぐに取り落としてしまう。フローリングの床に転がったそれが、ちらりと目に入った。研ぎ澄まされて鈍く光る金属の刃。ごつごつとした滑り止めが施されたグリップ。おそらく部屋の中に隠し持っていたのだろう、それは刃渡り二十センチ以上はありそうな、大型のサバイバルナイフだった。 「もう、お兄ちゃんはしょうがないなぁ。わたしがいないと、全然駄目なんだから……」  今の俺に握らせるのは無理と判断したのか、弥生はそれを革の鞘に収めて小脇に挟む。そうしてまた両手で俺を抱き締め、「ほら、立って」と言った。
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