3 九月二十六日(二日目)

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 そのときふと振り返ると、斜向かいの家から住人らしい中年女が出てくるのが見えた。しかしどこへ行くでもなく、いかにもわざとらしい仕草で玄関周りの片付けをしている。その合間に、俺の様子をちらちらと窺っているのはわかった。  声をかけるべきか、無視するべきか。一瞬迷いはしたものの、結局は無視することに決めて歩き出した。しかしちょうどその家の前を通り過ぎようとしたとき、向こうから呼び止められた。 「ねえあんた。ねえ……お兄さんってば」 「……俺ですか?」 「他に誰がいるのよ。お宅、昨日そちらに越していらしたかたでしょう?」  女はそう言いながら、ゆっくりと表へと出てきた。おそるおそるといった足取りではあったが、その目には好奇心をありありと浮かべている。 「どちらからいらっしゃったのかしら。わたしたち何も聞かされてなかったから、ちょっとびっくりしててね」  どうやら俺たちを、新しくあの家に越してきた家族だと思っているらしかった。それで、ろくに挨拶もないことを気に入らなく思っているのか。  しかし俺たちは、たった十日間あの家に住まうだけだ。しかしこの女に事実を説明してもよいものか。いっそ言ってしまってもいいが、あとであの真島弥生に難癖をつけられても面倒だった。  そんな俺の逡巡など構いなしに、女は勝手に喋り続ける。しかしその内容は、どこか奇妙なものだった。 「でも越してきていきなり、あんな夜中まで電気つけてられるのもねぇ……まあ、片付けとかも色々あるんでしょうけど」 「夜中まで?」  怪訝に思って、俺は尋ね返した。昨夜はいつ寝付いたのかも覚えていないが、きっとさほど遅くはないだろうと思う。しかしそれは自分だけで、他の面々は深夜まで何かやっていたのだろうか。 「それに、ねえ。小さな赤ちゃんまでいるんでしょう。夜泣きの声が聞こえてきたわよ。何かと大変よねぇ……そこはほら、私たちでも力になれることがあると思うのよ」 「はあ……?」  赤ん坊の泣き声とは何だろう。偶に発情期の猫の鳴き声が、人間の子供のもののように聞こえることもあるが、今はそんな季節でもない。もしかしたら別の家からのものと勘違いしているのではないか。
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