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週間天気予報に傘マークが並ぶ、365日の折り返し地点。
「この時季を鬱陶しく思わない日本人って、私と、」
傘立てには3本の傘。紗良は迷わずその中のひとつを引き抜くと、灰色の空に向かってニコッと笑いかけた。
☆
紗良は気が向いた時しか学校に行かない子どもだった。
友達と教室で勉強するよりも、自宅の庭の芝生に寝転んで本を読んだり、日が暮れるまで蟻を尾行したりするほうがよっぽど楽しかったから。
会社を経営していた紗良の父親が、生まれてくるわが子のために建てたのは、城のような豪邸。小学生の紗良にしてみれば、敷地を一周するだけでも立派な冒険だ。
きょうだいも友達もいない紗良は、来る日も来る日もひとりで冒険を楽しんでいた。本人にとってこの生活は快適そのものだったが、周りはそうはいかない。
娘を心配した父親が、ひとりの新入社員に斬新な提案を持ちかけた。
「三崎くん。もし君が、そこまでこの職種にこだわりがなければの話なんだが...ウチで働いてみないか?娘の友達になってほしい」
こうして、ある日突然、紗良にはじめての友達ができた。
相手は12歳年上の男。
「はじめまして、紗良ちゃん。よろしくね」
第一印象こそ「茶髪のうるさそうなヤツ」だったが、博識な三崎と過ごす毎日はとても刺激的で、三崎が仲間入りしてから、紗良の冒険は格段にレベルアップした。
花の種類、天気の名前、動物の生態。紗良は毎日三崎と話しながら、いろいろな知識を学んでいった。
庭の手入れから紗良の家庭教師まで、なんでも器用にこなす三崎。父親は「自分の目に狂いはなかった」と、その様子をほほえましく眺めていた。
紗良は家族と過ごすより、三崎と過ごす時間のほうが多かったし、それに何の違和感も覚えなかった。一方で、三崎のほうも紗良をとても気に入っており、一緒にいるときのふたりはまるで兄と妹のようだ、と周りによく言われた。
しかし、こんな関係がいつまでも続くはずもなく。
紗良が中学にあがるころには、ふたりの気持ちにズレが生じていた。
「ねえ三崎、明日休みでしょ?観たい映画があるの」
「三崎の初恋の相手って、どんな人?」
「三崎、何食べたい?私がなんでも作ってあげる!」
紗良は、三崎に恋をしていた。
この年頃の少女は、氷でできた花のように脆い。
彼女には自分が見えていないのだ。
太陽を求めて、まっすぐに。
明るい場所へと進んでいく。
そして気付けば、三崎が紗良のすべてになっていた。
だが三崎としては当然、紗良の気持ちに応えるわけにはいかない。
「映画か。同じクラスの倉本くんは?最近仲良いんでしょ?」
「幼稚園の先生。綺麗な人だったよ」
「でも俺、自分で何でも作れるちゃうからなぁ。一緒にお菓子でも作ろっか」
☆
中学卒業まであと半年。
紗良は再び、学校を休みがちになっていた。
そのことが原因で両親から責められることもあり、この頃、紗良はあまり笑顔を見せなくなっていた。
「すっかり梅雨だね。三崎は雨、嫌い?」
いつもの散歩コースを、ふたつの傘が彩っている。
「全然。土の匂いがするし、花がいつもより綺麗に見えるから。晴れの日にはない良さがあると思うよ。まぁ、洗濯物は外に干したいけどね。って、どうした?」
なぁんで泣いてんの、と笑いながら紗良のほっぺたをつまむ。
...それじゃ、子どものころと同じじゃん。
悔しくてたまらなくなった紗良は、三崎の手を払いのけてキスをした。
「私ね、三崎がいれば他に何もいらない。ずっと一緒にいて」
三崎は落ちた傘を拾い上げて手渡すと、一度だけ優しく紗良の頭を撫でた。
☆
ガタン、という重苦しい音とともに扉が閉まる。
男はその場でうずくまり、静かに泣いた。
腕の隙間から漏れた声は誰にも聞かれることなく、雨音がかき消した。
「お嬢様、紫陽花の花言葉って知ってます?」
「ふたりきりの時に敬語使わないで!」
三崎はいまだに、社長の前では紗良を「お嬢様」と呼び、敬語を崩さなかった。
「ごめんごめん、冗談。あじさいって、時期によって色が変わるじゃん?だから、移り気っていう花言葉があるんだよ。それを知ってから、あじさいがやけに色っぽく見えるようになってさ。そんなに派手な花じゃないからこそ、余計にね。俺のいちばん好きな花」
「そんな花言葉があるなんて、知らなかった。私、ここで三崎にいろんなこと教わってきたけど、まだまだ知らないこと、あるんだ」
「そんなに泣かないで」三崎は申し訳なさそうに、紗良の頬をなでる。
「俺は本来、君に指一本触れちゃいけない立場なんだよ。一緒にたくさんの時間を過ごしてきたけど、あくまでも俺は、社長に雇われてる従業員。社長には本当に感謝してるんだよ。普通のサラリーマンってのもつまんないな、と思ってたし。...こうして紗良にも会えた。だからふたりを傷つけるようなことは絶対にしたくない。すごく大事な人なんだよ、ふたりとも。分かってほしい」
「そんなのどうでもいいよ、私のことなんか、めちゃくちゃに傷つけて、壊しちゃえばいいじゃん、それでクビになったら一緒に、」
あの日と同じ、空の色。
あの日と違うのは、
「もう雨、止んでるよ?」
「やだ、閉じない...っ」
傘を閉じたらすべてが終わる。
「綺麗だね。」
今まででいちばん近くにある三崎の瞳は、いつまでも紗良を捉えて離さなかった。
☆
ふたりで話したのは、それが最後。
最後の日、三崎は青いあじさいのブーケをプレゼントしてくれた。
そして、そっと耳元に近づいて、私にしか聞こえない声で囁いたんだ。
ねえ三崎、今年も梅雨が来たよ。
「花言葉、調べてみて。必ず迎えに行く」
辛抱強い愛情
これが、青いあじさいの花言葉。
約束の年まで、あと一年。
降りしきる雨のなか。
青い傘が、憂鬱な人込みをかき分けて進んでいく。
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