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「庭にアザミ、咲いてたよ」
蒸し暑い六月の夕方、升田小縒(ますだこより)は中学校から帰宅した第一声ご機嫌に…とは程遠い調子で祖母にそう報告した。
「庭って、うちの庭?アザミなんてあったっけ?」
「あったよ。おばあちゃん、憶えてないの?」
小縒は夕飯の支度をする祖母の後ろを通り過ぎ、少々荒々しく食卓椅子に通学用バッグを置くと、冷蔵庫を開け中を物色した。
「低学年の今ぐらいの時期だったか、おばあちゃんが庭いじりするのに私もくっついて庭に出て」
小縒はドアポケットから炭酸水が入ったペットボトルを出すと、食器棚に向かいグラスのひとつを手に取った。
「その時、アザミの葉っぱの棘が指に刺さったの」
「あんた、よく憶えてるわねぇ」
「忘れないよ。痛かったせいで憶えてるのもあるけど、それよりも怪我した後におばあちゃんが言った、花言葉」
「花言葉?アザミの?」
祖母はニンジンを千切りにしていた手を止め、空をみつめて記憶を手繰った。
「ああ」
「そう」
「「わたしに触れないで」」
プシリとペットボトルの蓋を開けた小縒は、グラスに炭酸水をなみなみ注いだ。
「何、それ?って思ったよ。普通、花言葉って、『永遠の愛』とか『誠実』とか、そういうポジティブなもんじゃないのーって」
「植物からしたら、触られたくないの当たり前だけどね」
台所に再び、包丁がまな板に当たる音が規則的に響き始めた。
「じゃあ、この世のすべての花言葉が『わたしに触れないで』でいいんじゃない?」
「随分とアザミに恨みを残してるのねぇ」
眉間に皺を寄せた小縒は、グラスを傾け炭酸水の泡立つ水面を覗き込んだ。
「恨みって程でもないけど…花は綺麗な紫だと思うし」
小縒は覚悟を決めたかの様にグラスに口を付けると、ごくごくと中身を飲み干し、空になったグラスを音を立てて食卓に置いた。
「今日、部活終わりに渡り廊下歩いてたの。そしたら、向こうから同じクラスの男子が歩いてきて、その子が、私のすぐ二メートル先でコケたんだよね。コケた場所、天井が雨漏りしてる下のあたりで。今は上がってるけど、さっきまで雨降ってたでしょ?だからそこ、濡れてて滑りやすくなってたんだよね。それでコケちゃったんだろうけど、それが、なかなか見事なコケ方で、スッテーンって感じだった。あまりにも見事で、私、笑いそうになっちゃって…そうにじゃなくて、実際に少し笑っちゃったんだけど。その男子が普段、ちょっと気取ってるようなトコがあるから余計に可笑しい気がして。でも、すぐに駆け寄ってって、それで、私も滑りやすい床のせいで危うくコケそうになったけど、それはなんとか堪えて。それで、立たせてあげようと彼の腕を引っ張り上げようとしたんだけど、そしたら」
独りよがりに続けられていた説明が急に途切れたのに、祖母は後ろを振り返った。孫は口をへの字に曲げて突っ立っていた。
「そしたら?」
「そしたら、『触んな』ってさ。引っ張ったのが厭で『ひっぱんな』っていうならまだしも、『触んな』だよ。笑っちゃったのは悪かったかもだけど、せっかく起こしてあげようとしたのになんなのさーって。で、帰ってきたら、アザミが咲いてるでしょ?まぁ、アザミは、いいけどさ。過剰防衛が過ぎるでしょーって思って。それで、その男子の名前がさぁ」
小縒は苛立ちを抑えきれず、頭を掻いた。
「浅見(あさみ)君っていうの。でも、アサミじゃなくてアザミ君だよ。『私に触れないで』君だよ、あれは」
その晩、仕事で遅くなる母が帰ってくる前に、小縒は祖母と二人だけで夕食をすませた。小縒が風呂から上がり水を飲みに台所に行くと、母が一人分の味噌汁を温め直しているところだった。
その母に、「それで?小縒は『アザミ君』のこと、好きなの?」と聞かれた小縒は即座に、「なんでもかんでもお母さんに話さないで!」と、居間でドラマを鑑賞中の祖母に抗議した。
それから、半月程たった頃だった。
定期テスト終わりのその日、小縒は出ようとした校門の脇に、最近話題に上った例の紫色の花の影を見た。それが自宅の庭にあるものより背が高い気がして、品種が違う物かもと小縒はふらふらとその花に近付いて行った。そのアザミは、花の大きさも形も色も、見知ったものと同じに見え、どうやら高さの違いは個体差のせいであるようだった。
小縒は放射状に広がる細い花弁を改めて間近で見て、やはり綺麗だなと思った。祖母がガーデニングで育てているバラやチューリップが持つような愛想の良さはないが、天に背を伸ばせるだけ伸ばし自らの魅力を健気にアピールする姿は可愛らしく感じられた。
花だけをじっと見ているうち、ふと、夏の夜空に浮かぶ花火を思い出した。真上から見た姿は火花が弾けた直後、少し斜めにしてみれば、地面に落下していく形にもみえるだろうか。
「それ、棘あるから」
背後から突然言われて振り向くと、前髪で目がほとんど隠れた痩せた少年が、通学バッグを肩にかけ舗道に立っていた。小縒はすぐに以前に彼から受けた仕打ちを思い出し、不機嫌な声音で返した。
「知ってる。前に刺されたことあるから」
「それ、葉っぱに?花の下の方にも棘あるから」
「……知ってる」
アザミに見惚れていた現場を、見られていたのだろうか?他の誰に見られてもいいが、何故だか彼に見られたことにはバツの悪さを感じ、そうして小縒は咄嗟に言い訳を作った。
「なんで、こんなのここに生やしてるんだろうって考えてて!これ、誰かが怪我するかもだから、危なくない?綺麗な花なら、もっと安全なのがあるだろうに。ただ、人を傷つけるようなこんなやつ」
「でも、これ、食べられるやつだよ」
「え?食べられるって…」
小縒は意外な情報に、思わずアザミを上から下までまじまじと見つめた。
「根っこ、とか?」
「根っこもいけるらしいけど、葉っぱも」
「葉っぱ?!喉血まみれになるよっ!!」
ぞっとして小縒が目を剥くと、少年は彼には珍しく派手に噴き出してから、
「もうこの時期のはダメだけど、春頃のまだ柔らかいのは天ぷらにできんの。親戚ん家で出された」と説明した。
「はぁー…」
小縒はそうは言われても俄かには信じられないという気持ちで、アザミの葉を注視した。幼き頃の流血事件を起こした鋭い棘が効力を失くすとは、天ぷらという調理法が凄いのか、それとも流れる年月がこんなにも彼(アザミ)を頑なにするのか。しかし、いかにも喰えなさそうな過剰防衛植物が煮たり焼いたりすれば…どうやら、揚げるようだが…問題なくいただけるとは、どんなヤツとでも、付き合い方はこちらの工夫次第ということか?
「…升田さん、なにか?」
「へっ?」
アザミを観察していたつもりの小縒だったが、いつの間にか横に立つ少年を凝視してしまっていた様だった。小縒は視線を半回転させた後、最後に中空を見上げた。
「あーっと!テストようやく終わったねー!私、期間中ずっとゲーム我慢してたんだ!これから家帰ってゲームしまくろっ!!ってことで、じゃあ、アザミ君、また明日!」
濁点を一箇所余計につけたことを訂正しないまま、小縒は少年と目を合わせることなく、そそくさと校門から出て行った。
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