その2

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その2

かつて、JR高円寺駅南口からほど近い屋根つき商店街にある雑居ビルに、2軒のライヴハウスが入っていた。 地下1階が「ギヤ」。地下2階が「2百万ボルト」。 地上と2軒をつなぐL字型の階段と共に、この2軒は高円寺パンク・ロックの象徴であり、パンクスたちの拠り所だった。 平日も休日も関係なく数々のバンドたちが夜な夜なステージにて熱い演奏を繰り広げ、フロアは髪を立てて派手な衣装を着込んだパンクスたちであふれ返り、バー・スペースでは笑顔とお喋りが絶えることがなかった。階段や踊り場さえも彼らにとってはたまり場であり、ライヴ中やライヴ後は階段に座り込んで余韻にひたり、また大いに酔っ払うのが風物詩だった。 時には殴り合いの喧嘩も起きたり、トラブルなどは日常茶飯事。だがそれもまた譲れない真剣な想いのぶつかり合いであり、褒められたものではないにしても…ある種の大事な風景ではあった。 この2軒からは(パンクに限らず)沢山のバンドやミュージシャンが巣立っていき、そのうち何組かは有名になり、より広い世界へ進出していった。しかし有名・無名を問わず、多くのバンドマンたちにとって「ギヤ」「2百万」と言えば自分たちのルーツであり、大事な故郷だった。 あの出来事が起きるまでは。 数年前のある夜明け前、2軒の上にあった居酒屋で火事が発生した。フロアを焼き尽くし、4人の死者を出す大惨事だった。高円寺の街は騒然とし、数日の間、テレビカメラを構えたクルーが我が物顔で通りを占拠し、バンドマンたちに「ビルの写真や映像が残ってないか」と聞いて回っていた。 騒ぎの陰で、2軒のライヴハウスは休業を余儀なくされた。かなり古い建物だったため、火災によって消防法などの不備が露呈してしまったのも良くなかった。「早くオープンしないかな」「しばらくすればまた復活するだろう」というパンクスたちの楽観的な希望は、日が経つにつれ徐々に焦りへと変わっていった。 残されたライヴハウスのスタッフたちは存続を訴えて各地を奔走した。バンドマンたちの間でもライヴハウスの親会社に再開を嘆願するための署名運動が始まり、誰もが“あのハコでの熱い夜をもう一度”と心から願った。 しかし、オーナー側が最後に出した答えは悲しい現実だった。 「ギヤ」「2百万ボルト」閉店。 パンクスたちはエデンの園を追われた。 自らに何ひとつの落ち度もなく。 二人は黙って酒を飲んでいた。まるで、想いを口にしたら壊れてしまうとでもいうように。 その後、2百万ボルトは当時の店長を中心とした熱いスタッフたちにより隣町に新天地を見い出し、少しの名称変更を経て新たなパンクの聖地として再スタートを切った。 しかしギヤが復活することは叶わなかった。気持ちだけではどうしようないこともある。 月日が流れ、ギヤは過去の思い出としてのみ語られる存在となった。 アイヴィーにとっても2軒のライヴハウスは思い出の詰まった青春のステージ。特に思い入れが強いのはギヤの方だった。 田舎にいた頃のアイヴィーにとって高円寺のライヴハウスは憧れの存在で、その中でまず最初に足を踏み入れたのがギヤだった。荷物をロッカーに預け、今夜の宿も決まっていないままライヴを観に来たのだ。そこにはパンク雑誌で見た通りの世界が広がっていた。 ギヤを中心に彼女のバンド人生は広がっていった。もちろん他のライヴハウスにも出入りはしていたが、暇さえあれば顔を出すのはギヤだけだった。 自身のバンド“ズギューン!”の初ライヴもギヤだったし、初の自主企画もギヤだった。 ひょんなことから知り合った松下のおばちゃんをライヴハウスに呼んだのもアイヴィーで、その舞台もギヤだった。 松下のおばちゃんがギヤで撮ったアイヴィーのライヴ写真が写真展で入賞し、そこから彼女は注目され始めた。そんな舞台でもあった。 そして何よりも。 アイヴィーとシンは、ギヤで出会った。 とあるアクシデントをきっかけに言葉を交わすようになり、やがて引き寄せ合う磁石のように二人の心は交錯し、その想いは結実した。一緒に暮らすようになるとギヤはご近所さんとなった。 一番大切な人も、ギヤが与えてくれた。 ずっとずっと、そんな思い出を永遠に積み重ねながら…白と黒のモザイクタイルに彩られたあのステージに立ち続けるものだと信じていた。そんな思いは、あの火事によって木っ端みじんに打ち砕かれた。 あの夜、二人はギヤからほど近いロックバーでの友人のバースデー・パーティに顔を出していた。 しこたま酒を飲み、気の合う仲間と大笑いをして、時間が経つのを忘れて楽しんだ。大騒ぎがやっとお開きになったのは明け方近くだった。 最初はかすかに感じる程度だった焦げ臭さは、やがて足元がおぼつかないほど酔ったシンやアイヴィー、仲間たちの鼻にも届き始めた。店の中じゃない、もっと遠く。 程なくして消防車のサイレンと鐘の音が、白み始めた高円寺の朝の静寂を切り裂いた。どこかで火事が起きている。 それでもまだ、千鳥足で駅の方へ向かう一行の気分は上々だった。PAL商店街にたどり着くころ、辺りは既に煙が充満していた。 商店街の入り口は封鎖されていた。非常線が貼られたショッピングモールの前には既に野次馬が集まり始めている。 誰かが携帯電話に喋っているのが聞こえた。 “石川亭が燃えている” その時になって、シンやアイヴィーはやっとこの火事が他人事ではない、と理解した。酔いは一瞬で吹き飛んだ。 「石川亭」は、ギヤと2百万ボルトの上にある居酒屋だった。打ち上げで何度も使ったことのある、安くて料理もまあまあ美味くて、何より終電を逃したバンドマンが朝までダラダラと過ごせる、馴染みの店。 二人が初めて会った日の打ち上げも、石川亭だった。 仲間たちと別れ、アイヴィーとシンは何とかして石川亭の近くまで行けないか、とPAL商店街の周りをウロウロしながら、少しでもビルが見える場所を探し続けた。 頑丈な造りのモールに阻まれ、ビルはおろか炎を見ることすらできない。いつも何気なく使っているビルの全貌を見たことがないことに、二人は今さらながら気づいた。 人だかりはますます増え続ける。緊迫感が漂っていた。 シンがポツリとつぶやいた。 「昨日、誰がライヴやってたんだ?」 そう、石川亭の下。ギヤと2百万ボルト。 二人は昨夜ライヴハウスに仲間や知り合いが残っていなかったか、石川亭に行っていなかったか、確認の連絡を取り続けた。何かせずにいられなかった。 ますます激しくなる煙とサイレンの音を横目に、サラリーマンたちがいつも通りに朝の通勤をするために通り過ぎていく。日常と非日常の、狂ったコントラスト。 バンド界隈の人間で、火事に巻き込まれた者は誰もいなかった。 人命の代わりに、パンクスたちは我が家を失った。
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