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その3
「ごちそう様。」
そう言ってアイヴィーはえんじ色のDr.マーチンの靴ひもを結び始める。古ぼけたコンバースに足をつっこむだけのシンは、立ったままそんな彼女をずっと待っている。
これも、いつもの光景。
焼き鳥屋ののれんをくぐると、身を切るような寒さが二人を包んだ。今年の冬は寒くて、革ジャンくらいでは到底しのげない。早く家に帰ってお風呂に入らないと。
今日は二人とも、仕事もスタジオもライヴも何もない。
普段のシンは左官職人。アイヴィーは服飾デザイナーもどき。“もどき”というのはそれ一本で食えるほど稼げてはいないから。その代わりバンドで赤字は出ていないし、実は他に収入源もある。二人でなら、そんなに贅沢をしなければ日々の暮らしには困らない。
お互いの肩が触れるか触れないかくらいの距離で、並んでぶらぶらと歩く。ブーツを履いたアイヴィーは平均的な女子より少し背が高いけど、それでもシンの方が頭ひとつ大きい。
手をつないだり腕を組んだりはしない。付き合い始めた頃から、ずっとそうだ。それがパンクらしいとか何とか、はよく分からない。そんな性分じゃないからだ。こうやって並んで歩いている方が自分たちらしい。
二人が住んでいるのは北口の、駅から10分くらい歩いた場所にあるアパート。高円寺では何度か引っ越しをしたけど、一貫して北口に住み続けている。
ギヤと2百万ボルトが閉店して以来、二人がPAL商店街に行く用はほとんど無くなってしまった。
いま高円寺のライヴハウスはほとんどが北口に集中している。南口には仲間の経営するロックバー、パンクショップ、タトゥーショップなどががんばっているが、PAL商店街にはほとんどパンクの痕跡がない。
実のところアイヴィーはここ数年、PAL商店街を避けるようになっていた。
石川亭と2軒のライヴハウスがあった雑居ビルは、その上にあるキャバクラのみが営業している状態が長く続き、ライヴハウスに通じていた階段は塞がれた。
火事のあとに彼女は何回か塞がれた階段の前に立った。そして、長くそこに留まることができなかった。いろいろな感情が溢れすぎて、呼吸が苦しくなる。
どんなものにも必ず終わりはある。そんなことは分かってる。
慣れ親しんだライヴハウスの閉店は、これまでも何回か経験してきた。確かに寂しいことだけど、普通は前もって告知があり、ラスト・ライヴをする機会があり、何らかの形で踏ん切りをつけることができる。
でも、ギヤの場合は。
終わりすら、与えられなかった。
アイヴィーの中では、未だにギヤは終わっていない。再び始まることは絶対に無い、と知りながらも。それがどんなに苦しいことか。どんなに辛いことか。
だから、彼女はギヤへの想いをむりやり封印した。
到底忘れられるわけはない、と知りながらも。
たぶん、そう感じているのはアイヴィーだけじゃない。
「寝る前にさ、ちょっと飲み直す?」
「そうだな。」
「コンビニでさ、何かおつまみ買ってこうよ。」
「そうだな。」
二人の会話は短い。アイヴィーが話題を振って、シンが言葉少なに答える。それで十分こと足りる。
シンもアイヴィーも一本気な性格。付き合ってから二人の愛情が揺らぐことはなかったが、シンが尖っている頃にはバンドとしての衝突は何度かあった。
当初、バンドマンとしての実績はシンの方が遥かに先を走っていた。しかしアイヴィーのバンド“ズギューン!”はあっという間に彼を飛び越し、その情熱をステージで余すところなく表現し、高円寺からはるか先の広い世界でも認知される存在となった。
シンはそんなアイヴィーがまぶし過ぎて、それも彼がどん底まで転げ落ちる一つの要因となった。負のスパイラルは連鎖し、彼が払った代償はとてつもなく高いものについた。
シンがツケを精算して再び立ち上がるために戻ってきた時、アイヴィーは手を貸さなかった。その代わり、ある時は背中を押し、ある時は突き放し、ある時は抱きしめ、ひたすら支え続けた。シンが自分とバンドを取り戻すまで。そして、自分は一人じゃないと気がつくまで。
シンは自らそれをつかみとった。初期衝動はそのまま、彼の人生はうるおい始めた。彼は自分を信じ、仲間を信じられるようになった。そして、それを成し遂げた時にまだ自分の隣にいてくれる赤い髪のこの女、彼女なしに今の自分はあり得ないことも理解していた。
アイヴィーのためなら、この心臓ごとくれてやってもいい。
口には出さない。出す必要もない。お互いに理解していれば、それでいい。
今もバンドのスケールとしては、シンのバンドより“ズギューン!”方がずっと上だ。でもシンはもう惑わされない。人のバンドの境遇をうらやむより、ただ目の前のライヴに魂を賭けてステージに立つ。それで十分なのだと。
動員が多いバンドが偉いなんて、どこにも書いてない。
シンはパンク・ロッカーだ。
高円寺駅前には、大嫌いなオマワリが立っていた。いつの時代もパンクスたちはオマワリの目の敵にされる。これほど自分に正直な人種は、他にいないってのにね。
シンがオマワリを避けるようにプイと向きを変え、駅の構内に入っていった。
「シン、どこ行くの?」
「ちょっとな。」
アイヴィーが慌てて後を追う。シンは改札の前を通り過ぎ、南口の方へ向かっていった。終電まであと少し、高円寺駅はいつものように騒がしい。
駅を通り抜けるとシンは右に曲がり、高架下を横断歩道に向かって歩いた。目の前の信号を越えて少し歩けば、左側には…PAL商店街。
「ねえ、シン。」
赤信号で立ち止ったシンに、アイヴィーはまた問いかけた。
数年前、この横断歩道を歩けば知り合いの誰かと必ず顔を合わせたものだった。今となっては、バンドマンらしき人間がここを通ることすらも珍しい。
青信号をゆっくりと歩き出しながら、シンはぼそりと言った。
「ちょっと、最後に見たくなってよ。」
「えっ…。」
シンは振り返らず、すたすたと歩いていく。
アイヴィーは立ち止った。
シンが高円寺の南口で、最後に見たいものなんて。
あの場所に、決まってるじゃない。
シンはどんどん歩いていき、やがてPAL商店街に入って姿が見えなくなった。
一緒に来いとも何とも言わない。
けど、アイヴィーには何となく分かる。シンが自分のために、あの雑居ビルに行ったんじゃないってこと。
シンは知ってる。二人でPAL商店街を歩いていても、あのビルの前になるとアイヴィーは早足になる。意識して前だけを見て歩き続ける。
アイヴィーがどう感じているか、シンは分かっている。
今までなら、それでも良かった。
だけど、もうそんな感情すら示すことができなくなる。
向き合うなら、今しかない。
だから。
「…行くか。」
アイヴィーは深呼吸をして、シンを追いかけ歩き出した。
どんな気持ちになるかは分からないけど。
大声で泣いちゃうかもしれないけど。
蓋をしたまま終わりになるよりはずっといい。
今夜、抑えつけていた感情と向き合おう。
自分の気が済むまで。
アイヴィーが追いかけると、シンはあのビルの手前にある交差点を歩いていた。横に並ぶと、彼はチラッと彼女を見たが何も言わなかった。
アイヴィーは柄にもなく、ちょっと緊張した。
ただ、前にライヴハウスがあった雑居ビルを見に行くだけ。それだけなのは、分かっているけど…。
気持ちを落ち着ける暇もなく、二人はあのビルの前に立った。
ギヤと2百万ボルトが入っていた雑居ビルは、駅からPAL商店街に入って中ほどの左側。
短い階段を上がると、ドアのない長方形の奥まったエントランス。一番奥にあるエレベーターは上の階にあるキャバクラのために数カ月前まで稼働していたが、今やそれらの店も閉店し、ビルはひっそりと終わりの時を待っていた。
「ねえ、これ見て。」
アイヴィーが指さした壁には、ビルの解体計画書。
「…明日からか。」
「ねえ。今夜、来て良かったね。」
明日、このビルは取り壊される。
ギリギリ、最後に間に合った。運が良かったな。
いや、ギヤがアタシたちを呼んだのかな?
そんなことを思いながら、二人は灯りの消えたエントランスへ足を踏み入れた。
エントランス奥の左側に、かつてギヤと2百万ボルトに通じていた降り階段がある。
商店街の灯りにうっすらと照らされた、他の部分と色の違う壁。
アイヴィーとシンは壁を前にして、黙って立ち尽くした。
何も感じないわけじゃないけど、思ったような感情は沸いてこない。もっと、抑えられない何かが爆発するんじゃないかと思っていたけど。
さまざまな記憶は遠くにあって、掴めそうで掴めない。
ギヤが閉店してからずいぶん時間が経った。思い出はあくまで過去のもの。
この壁が、思い出すことを阻んでいるのかもね。
そう思いながら、アイヴィーはシンの方を見た。暗がりの中で、彼の表情はうかがい知れない。
外気はますます冷たさを増し、エントランスにも時おり風が吹き込んでくる。アイヴィーは身を震わせた。
「行くか。」
シンがつぶやいた。アイヴィーは黙ってうなずいた。
自分が思っていたのとは違ったけど。
これが、ギヤが終わるってことなんだな。思い出が本当に思い出だけになるってこと。
大人になったのかもな。
まあ、想いを少し吹っ切ることができたかな。
うん。今夜、来て良かった。
シンのおかげ。
二人は顔を見合わせた。何も言うことはなかった。
シンとアイヴィーは商店街の方へ向きを変え、外に向かって歩き出そうとした。
アイヴィーはふとお別れの挨拶のつもりで、かつて出入口だった壁をそっと押してみた。
「ばいばい。」
柔らかさと、光。
壁際から、ひと筋の光が漏れ刺した。
不意を突かれアイヴィーは目を大きく見開く。
「なに…これ。」
完全に埋められているものと思っていた壁がグラグラと傾いている。巧妙に隠されてはいるが簡単に動くようだ。前に来た時、そんな気配は一切なかった。それとも、気づかなかっただけ?
アイヴィーはシンの方を振り返った。シンもまた驚いた表情で、漏れた光を見つめている。
彼は慌てて後ろを振り返った。人通りはない。こんな寒い夜、終電も終わり、街はすっかり寝静まっている。
「アイヴィー、ちょっと下がってろ。」
シンはそう言うと、壁を慎重に調べ始めた。どうやら引き戸のように横に動くようになっているらしい。
シンが力をこめると、音もたてず壁が動いて出入口があらわになった。低い天井、下に続く階段。灯りに照らされ目がくらむ。予想された異臭なんかは漂ってこない。
生きている照明に、清潔な空気。
何年も密閉されていたはずなのに。
「早く入って!」
急に発せられた声に、二人はビックリして危うく階段から落ちそうになった。押し殺したような若い男の声。
誰かいる!
こんなところに、誰が?
浮浪者でも住み着いたんだろうか。
「早く閉めて、早く!」
アイヴィーとシンは顔を見合わせた。
ギヤは自分たちの聖地。中がどんな状態にせよ、いま再びギヤに足を踏み入れるチャンスがある。
迷う理由はない。
二人は入り口へ飛び込んだ。そして急いで壁を元に戻した。
音もなく壁が動いて、再び辺りには静寂が戻った。
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