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その5
ライヴハウス特有の中から爆発するような音のかたまり。二人にとっては心地よいシャワーのようなものだ。
フロアは薄暗く、人だかりで埋め尽くされていた。パンパンにふくれ上がったギヤなんて久しぶりだ、とアイヴィーは思い、そして一人で笑った。
ギヤにいること自体、久しぶりだっての。
ステージの照明が一番奥できらめいている。フロアに立ったモヒカンやスパイクのシルエットの間から、ピンク色の髪をウニのように逆立てたヴォーカルが見え隠れしている。知らない曲、知らないバンドだけど盛り上がっている。前の方ではモッシュピットが激しく動き、時々ダイブも起きている。すでにいくらか空気が薄い。
夢にまで見た、ギヤのライヴだ!
今すぐ最前列に突っ込んでいきたい気持ちもあったけど、予想以上に人が多く、初見のバンドということもあって少し冷静になる。アイヴィーは改めて周りを見渡した。
やや横長のフロア。配管がむき出しの天井。黒い壁。
全てが、アイヴィーの覚えているそのまま。
今日は物販などは出ておらずフロアは広々としていたはずだが、詰めかけたお客の数はそのキャパシティーを余裕で振り切ってしまいそうな盛況ぶりだ。隅っこにビヤ樽が置いてあり、上には灰皿と飲みかけのドリンク。そういえば、あんなものもあったよね。
チラッとPA卓を見ると、暗がりで確認しづらいが女性が担当しているようだった。
ステージに目を戻すと、隣で腕組みをしてライヴを観ていたシンがアイヴィーの耳元に口を寄せた。
「ギター、走りすぎだな。」
アイヴィーは暗がりの中ではにかんだ。一気に記憶がよみがえってくる。
そう、二人でよくこうしてこの場所から、ライヴを観ながらああでもないこうでもないと目の前のバンドを批評していたっけ。シンの評価はいつも辛口で、でも的を得ていて、何よりアイヴィーはシンの批評を聞いているのが好きだった。
シンの息が彼女の耳をくすぐるたびに、お腹の奥底までザワザワと何かを感じていた。まだ二人が一緒になる前のお話。
あの時みたいに、今もザワザワしている。
忘れていた気持ち。
ますます激しくなるステージとフロアの後方で、シンとアイヴィーは二人だけの時間を積み重ねていた。
ライヴが終わり、汗まみれのパンクスたちは疲れと充実が入り混じった表情のまま、冷たい飲み物を求めてぞろぞろとバー・カウンターの方へ出て行った。
二人は流れに逆らって、ステージの方に足を運ぶ。
他のライヴハウスより少しだけ低めの柵。ステージの床は、やっぱり白黒のモザイクタイル。
ステージの左奥が楽屋。フロアの左奥にも楽屋に通じるドアがある。あの中へ、入っていきたい。出演者に誰か知り合いがいれば…。
ご機嫌なナンバーがフロアを揺らし始め、アイヴィーは我に返った。PA卓の前に置かれたDJブース。メガネにハンチングでスカジャンを羽織った小太りのDJが、オーバーアクションをしながらロックンロールを回している。このゲーム機みたいな独特の一体型CDJも、ギヤならではだ。
DJもやっぱり、見たことない顔。見たことないけど…。
「シン。お酒、買いに行こうよ。」
「そうだな。」
ライヴと同じくらいに沸きあがるフロアを後にして、二人はバー・カウンターに戻ってきた。人の流れはますます激しくなり、マネキンのそばも占拠されている。とりあえずドリンクの列に並んでおこう。
そこかしこで談笑が始まっている。壁際、カウンターにもたれて、ベンチに腰かけて。誰も彼も心からリラックスして楽しんでいるのが伝わってくる。みんな、いかにもギヤの常連といった雰囲気。
だれ一人、知った顔はいないというのに。
「はい、どうぞ。」
バー・カウンターには黒と灰色のネルシャツを着た、人懐っこそうなあごヒゲの若い男が立っていた。いかにもライヴハウスの店員らしいいでたち。アイヴィーはドリンク交換のため、チケットを彼に渡した。
「そのチケット、返してね。今夜は特別だから。」
「そうですよね。アイヴィーさんみたいな方でも、今夜は特別な夜ですよね。」
そう言いながら彼はチケットに“使用済み”のスタンプを押し、アイヴィーに返してくれた。どうして家でギヤのチケットを見ていないのか、思い出した。ここで、ドリンクと交換しちゃってたからだ。
あの時は、チケットの紙なんていつでも手に入ると思ってた。
「ラムコーク。」
「はい。」
男は慣れた手つきで酒を用意し始めた。
ギヤに初めて来た頃はラムコークをよく飲んでいた。お酒というものが分からなくて、とりあえず知ってそうな味、という理由で頼んでいたのだが。
すぐにビールの味を覚え、それ以来はビール党のアイヴィー。だけど…今夜は久々に、ギヤのラムコークを飲んでみたい。
「アタシのこと、知ってるんだ。」
サーバーから紙コップにコーラを注ぎ始めた男に、アイヴィーは再び話しかけた。
「そりゃ、有名人ですからね。」
「ああ、まあ…ね。」
この言い方をされるたび、アイヴィーは心底うんざりする。
数年前、彼女はプロの歌手としてソロデビューを果たした時期があった。
バンドが大きくなっていく中で、事務所や周りの様々な思惑に振り回されてのことであり、“ズギューン!”のメンバーは気持ち良く背中を押してくれたが、やはり水が合わずに結局戻ってきてしまった。
自分の中では楽しい経験ではなかったし、元・有名人扱いされるのは気持ちいいものではない。その頃の印税などで、未だに助かっているのは事実だが…。
醒めた顔つきのアイヴィーに男はラムコークを手渡すと、ニッコリと微笑んできた。
「高円寺でシンさんとアイヴィーさんを知らないやつはモグリですよ。」
アイヴィーの後ろにいたシンが、思わず自分を指さした。
「俺も?」
「そうですよ。“ズギューン!”のアイヴィーさんに、“ニー・ストライク”のシンさん。高円寺界隈のパンク・バンドでトップの二人、最強のカップルじゃないですか。誰だって知ってますよ。」
「そうか、有名ってそういう意味の…。」
「あ、俺、なんか失礼なこと言いました?」
「ううん、何でもない。大丈夫だよ。」
アイヴィーは自意識過剰な先読みをちょっと恥ずかしく思うの同時に、心から嬉しくなった。
誰も知り合いがいない今夜この場所で、だけどこの子、アタシたちと同じだ。
同じ空気を吸って、同じ価値観を共有し、同じ世界で生きてる。
そして多分、ここにいるみんな同じ仲間だ。
それだけはなぜか確信が持てる。
後ろを振り返ると、ドリンクに並んでいる人はいない。もう少し話をしていても構わないだろう。
「ねえ…ちょっと聞いてもいい?」
「どうして今夜、ギヤが営業してるのか、でしょ?」
男は紙コップに入った生ビールをシンに手渡しながら言った。
「とっくにライフラインも止められて、廃墟みたいになってるはずのライヴハウスが昔と同じように営業していて、ライヴまでやってる。そりゃ、普通に考えたらあり得ない話ですよね。」
「そう。だってさ…。」
考えを読まれてアイヴィーは言葉に詰まりかけたが、きっと彼は今夜、みんなからイヤというほど同じことを聞かれたんだろう。
「実は今夜のことは、かなり前から計画されてたんですよ。」
「計画?」
「そうです。」
アイヴィーはカウンターに腕を置いた。シンはビールを片手にキョロキョロしている。
「明日、このビルは取り壊されます。もう二度とこの場所は戻って来ない。だから、その前に一度、昔のギヤを復活させたい。ギヤでまたライヴがやりたい。そういう計画が持ち上がりましてね。」
「それって、誰が…その計画を考えた、今夜の主催者って誰なの?」
「ああ、それはねえ。」
彼はポリポリと頭をかいた。
「分からないんですよ。」
「分からない?」
アイヴィーは思わず間抜けな声を出した。
「いったい最初に誰がこの計画を思いついたのか、誰に聞いても知らないんです。僕も仲間から誘われたただけでね。でも、呼ばれた全員が全員、即答で協力を決めましたね。なんたってギヤの一夜復活ですから。そりゃ当然やるしかないでしょ?」
「そりゃ…そうだよね。」
シンがカウンターから離れて、ぶらぶらと受付の方へ歩いていった。アイヴィーは考えをまとめるのに精いっぱいだ。
そんなメチャクチャな話って、あるの?
「…じゃあ、どんな人たちが運営してるの?」
「ギヤを心から愛する人たち。昔のギヤのスタッフが中心ですね。PAも照明も、僕みたいなドリンク係も。あとは電力確保の係とか、清掃係とか。なにせ何年も使ってないライヴハウスですから。人が入れるようにするだけで大変でしたからね。」
そう言って彼は誇らしげに辺りを見回した。
「レイアウトがまた大変でしたよ。何せ昔のギヤになるべく近づけたいですから。少ない写真や記憶をもとに、再現するのが大変で!でも、苦労の甲斐はあったと思いませんか?」
アイヴィーもまた辺りを見渡しながら、深くうなずいた。
なるべく、なんてもんじゃない。
記憶の中にあるギヤそっくりだ。何の違和感もない。
「ねえ!」
アイヴィーは我に返ったように大きな声を出した。
「アタシの仲間も呼んでいいかな?みんな、きっと喜ぶと思うよ。喜ぶどころか、気絶するかもね。今から連絡して…。」
「ああ、それはね。」
彼は申し訳なさそうに言った。
「ダメなんですよ、今夜のルールで。」
「ルール?」
「そうなんです。」
彼の口調はキッパリとしていた。有無を言わせない響きがそこにある。
「今夜のことは当然、ビルの管理者にも工事関係者にも、近所の住民にも秘密です。絶対に知られてはいけない、知られたらそこでイヴェントは終わりますから。」
「まあ、そうだよね。」
「誰かが仲間を呼ぶ。例えばバンドのメンバーだけ、と言っても、連絡を受けた人がまた他の仲間を呼ばないって保証はありません。そうやってみんなが仲間を呼んできたら、この場所だけじゃ到底収まりきらない。外で騒ぐ人も出てくるかもしれない。」
「そうか…。」
「本当はギヤに関わった全ての人に来てもらいたいですよ。でも、みんなを呼ぶことはできないんです。今夜ここに集まったのは、偶然ここに引き寄せられた人だけなんです。アイヴィーさんたちみたいに。」
「えっ?」
アイヴィーは驚いた。
これだけ人がいるのに、集客してないってこと?
と同時に、妙なことに少し気持ちが安らいだ。
彼がさっき言った“ギヤを心から愛する人たち”という言葉が引っ掛かっていた。アタシたちだってギヤを愛してたのに、どうして呼んでくれなかったのかと。
誰も呼ばれていない。引き寄せられた人だけが今夜ここへ来た。
それでも大勢の人たちが集まった。ギヤに別れを告げに来た人たちが。
そこに自分の仲間が誰もいないことは気になったが。
「でもさ。」
アイヴィーは気になっていることを口に出した。
「スタッフは有志ってことで、分かったよ。でもバンドは?出演者は?どうやって決めたの?タイムテーブルとかどうなってるの?そもそも、今夜は何時に終わるの?」
昔、表に出していた手書きの看板はもちろん出せないだろうけど。どこを見ても出演バンドが書いていない。
知ってるバンドは出ていないのかな?
「ないです。」
アイヴィーはまたも呆気にとられるしかなかった。
「…ない?出演者も、タイムテーブルも…ってこと?」
「はい。」
シンがまたカウンターに戻ってきた。お札を見せて、ビールをお代わりする。アイヴィーをチラッと見たが何も言わない。
「さっきも言ったとおり、今夜はスタッフ以外は誰も呼んでないですから。当然バンドも呼んでないです。来た人の中でバンドのメンバーが揃っていればバンドで出てもらうし、いなくてもセッションみたいな感じでいいならそうしてもらう。そうやってやりたい人がステージに上がるシステムです。みんなが満足したら今夜はお開きです。」
アイヴィーは頭が混乱してきた。
今まで聞いた中で一番デタラメな話だ。そんなイヴェント、聞いたことがない。だいいち、それじゃ明日になっても終わる保証もないじゃない!
今夜のことは全てがおかしい。狂ってる。
周りが?それともアタシが?
アイヴィーは自分を取り戻すように頭をブンブンと振った。話題を変えよう。
「スタッフと言えば…君もギヤのスタッフ…だったの?」
「そうですよ!だから嬉しくてねえ。あの当時は“ドリンク係なんてかったるいな”なんて思ってたけど、またギヤでドリンクが作れる日が来るなんて!最高ですよ。」
「ねえ。その当時って、いつ頃の…。」
アイヴィーの質問はカウンターに酒を求めて押し寄せた一団に阻まれた。シンがアイヴィーをそっと押しやる。
ドリンク係の男は、また楽しそうに酒を作り始めた。
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