その6

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その6

「絶対に変だよ。」 ステッカーだらけの白いベンチにシンと隣り合って座り、アイヴィーはひとり言のようにつぶやいた。 またライヴが始まったようで、人がフロアの方に流れていく。アイヴィーはラムコークに口をつけるのも忘れていた。 「そうだな。」 アイヴィーはシンにドリンク係の男に聞いたことを話した。シンは時おり相づちを打つだけで、あとは黙っていた。 「ずっと前から準備をしてたってのは、いちおう分かった。ホントにそんなこと可能なの?とは思うけど。でもさ…出演者が決まってないとか、お客を呼んでないとか、いちいち意味が分からないんだよね。」 「さあな。」 「誰も来ないかもしれない。バンドだって急に言われたって困るだろうし。マトモな企画者のやることとは思えないよ。」 しかし、現にギヤの中はパンクスであふれ返り、ステージでは熱いライヴが続いている。 一体どうなってるんだ。 「今夜こんなイヴェントがあるなんて、仲間の誰も何も言ってなかった。高円寺で起きたことなら普通は何かしらアタシたちの耳にも入ってくるでしょ?おかしいよ。」 「そうだな。」 シンはベンチにもたれかかり、首を後ろに倒して目を閉じている。その態度にアイヴィーはちょっとイライラした。 「そして、これだけ大勢のパンクスたちが来てるのに、アタシたちの知り合いが誰一人いない。誰もいないんだよ?高円寺で、しかもギヤだよ?なんで、知らない人しかいないの?」 「確かに知らないやつしかいないな。」 「でしょ?そんなピンポイントなことって…。」 「ただ、見たことあるようなやつばっかりだけどな。」 アイヴィーは思わずシンの顔を見た。 まさに、今それを言おうと思っていた。 「…シンも、やっぱりそう思う?」 「ああ。誰か、って言われると分からねえけど、絶対にどっかで会ってる。どこかで見かけてる。そんなやつばっかりだ。バンドも客も、いま話してたドリンクのアイツも。」 「ねえ。彼の年、いくつだろ。20歳?22歳?どう見ても25歳以上じゃないよね。」 「そんな感じだな。」 「アタシやシンが知らない頃のギヤのドリンク係って、いったい何年前の話?そんな子が20代前半なんて、どう考えても計算が合わないよ。」 アイヴィーの口調が熱を帯びてきた。 「全部が全部、納得できないことだらけ。話せば話すほど分からなくなる。これが夢じゃなかったら、じゃあ何なのよ!何かある。絶対に何かあるよ。」 「そうかもな。」 シンの口調が穏やかなことに、アイヴィーは突然気がついた。 シンは疑念を持っていない。 シンは気にしていない。 シンは落ち着き、くつろぎ…楽しんでいる。 「シン、知りたくないの?」 「ああ。知らなくていい。」 そう言ってシンは生ビールをひと口飲んだ。 「はじめは俺も思ったよ、こりゃいったい何なんだってな。夢なのか幻なのか、でなきゃ酒でも飲み過ぎたかなって。」 「…そんなに飲んでないよ。シン、昔みたいに飲まなくなって何年も経つじゃない。」 「そうだな、だから俺は変じゃない。アイヴィーも変じゃない。変なのはこの場所だ。でもな。」 シンは安らかな笑みを浮かべて言った。 「アイヴィー、お前、嬉しくないか?」 「えっ?」 「俺は嬉しいよ。こんな嬉しい気分は久しぶりだ。何たってギヤに戻ってこられたんだからな。夢でも幻でも誰かの陰謀でも、何でもいい。俺はいま、ギヤにいる。またここで、このベンチでお前と喋ってる。昔みたいにな。それで十分だ。理由なんていらねえ。」 アイヴィーは唇を噛んで黙り込んだ。 白いベンチ。赤いベンチの時もあったような気がする。そんなこと、気にも留めてなかった。だけど毎晩のように、シンとここに座ってた。 目の前をパンクスたちが陽気に通り過ぎる。笑い声がさざめいて、タバコの煙と酒の香りがブレンドする。 遠くで低音が響いている。またライヴが始まったみたい。 シンがまたビールを飲んだ。アイヴィーも手に持っていたラムコークをしばらく眺め、それからそっと口に含んだ。 「あっ。」 アイヴィーの声に、シンが片眉を上げた。 「どうした?」 「これ、ペプシだ。」 本当にペプシなのかどうかは知らないけど、いつもペプシだと思ってた。ギヤの、ラムコーク。 ギヤの味だ。 アイヴィーの左目から、涙が一滴こぼれ落ちた。 幸せだ。 生まれて初めて来たライヴハウス。アタシを育ててくれたライヴハウス。 閉店が決まった日は、おばちゃんの撮った写真を見ながら一人で泣いた。 さよならも言えずに急に消えてしまった。 それが今、こうして戻ってきた。 いま、ギヤにいる。 シンと一緒に。一番大事な人と、一番大事な場所で。 探偵ごっこなんかより、もっといい過ごし方があるよね。 アイヴィーは思わずクスっと笑った。 シンはそんな彼女を黙って見ていた。いつもみたいに。 「ねえ、覚えてる?ここでアタシがアンタの隣に座ると、シンいつもちょっと隅っこに寄ってたの。」 「そうだったか?」 「付き合う前は意外と紳士だな~って感心してたけどさ。付き合ってからもそうだったでしょ?もっと彼氏らしくしろよ!っていつも思ってたんだよ。」 「もう忘れたよ。」 そう言いながらシンは笑った。アイヴィーの大好きな笑いじわが浮かぶ。 トイレから誰かが出てきて、バタバタとホールへ向かった。ギヤのトイレとベンチの距離は極めて近い。昔は気にしたこともあったけど、今となってはこの距離も懐かしい。 「トイレのことは、覚えてる?」 「何かあったか?」 「これ。」 そう言ってアイヴィーはポケットからのどアメを取り出し、シンに見せた。 「ねっ。」 「そんなこともあったな。」 アイヴィーが自分のバンドどころか、誰も知り合いがいなかった頃。何かを求めて毎晩のようにギヤに出入りしていた頃。 のどアメを舐めようとしていた彼女に偶然シンがぶつかり、アメ玉が床に落ちた。極貧だったシンは新しいアメを買う余裕がなくて、トイレでアメを洗ってアイヴィーに返した。 それが二人の始まりだった。 「あれからずいぶん経ったね。」 「だな。」 アイヴィーはシンのそばに寄ろうとしたが、シンはわざとベンチの端によけた。それでまた二人で笑った。 遠くで誰かが再会を喜び合う声が聞こえてくる。 “ノボルか?俺だよ、ダイスケだよ!懐かしいな、何年ぶりだろ?まだバンド続けてたんだな…” アイヴィーとシンはどちらからともなく、ギヤの思い出話を話し始めた。 二人が初めて出会った日のこと。 アイヴィーの初ライヴの日のこと。 ケンカした日のこと。 荒れていた時のシンがライヴをすっぽかした時のこと。 楽しかったことも辛かったことも、悲しかったことも嬉しかったことも、全てが大切な思い出。ギヤのベンチに座ると記憶はより鮮明に浮かび上がり、忘れていたこともたくさん思い出せた。 シンは久しぶりに饒舌で、アイヴィーはお腹の底から何度も笑った。昔はよくこうやって笑ってた。機嫌のいい時のシンはライヴやツアーでの面白い話を山ほどしてくれて、いつも飽きることがなかった。 かと思えば時にはお互いのバンド論について激しくぶつかることもあり、そんな時は誰も二人に近づいてこなかった。それもまた大事な時間だった。 最近はそんな大笑いも議論も少なくなっていた。それだけお互いを理解できるようになったってことだけど…。 二人はちょっと、守りの時期に入っていたかもしれない。 今夜、アイヴィーとシンはあの時の二人に戻っていた。 前に進むしかなかった二人に。 松下のおばちゃんが骨折したライヴの話が佳境に入った時、バー・カウンターの方で誰かが大きな声を出した。 二人が振り向くと、人だかりの中で誰かが怒鳴り合い、モッシュみたいに押し合っているのが見える。ケンカだ。 アイヴィーもシンは同時に立ち上がり、急いでそこへ向かった。ほとんど本能的な動きだった。 ライヴ中のケンカは止める。大事なルール。 ケンカの主は、さっきの小太りなDJと茶髪のリーゼント・パーマをあてた筋肉質でつぶらな目の男だった。すでに何人ものパンクスが、二人の身体を押さえている。アイヴィーとシンも二人の間に割って入った。 当事者二人の共通の知人らしい、金髪のオールバックに不敵な目つきの男が仲裁を始めた。どうやらDJの選曲が気に入らなくて揉めたようだ。ほどなくしてケンカは手打ちになった。場の空気が緩むのが感じられる。 「こんな夜だからよ。ケンカしてちゃ、もったいねえよな。」 「そうだそうだ、楽しもうぜ。」 「でもまあ、ケンカもライヴの華だもんな。」 「たぶんこれがギヤで最後のケンカだからな。それもいいかもしれねえよな。」 周りのパンクスたちは口々にそんなことを言っていた。緊迫した場面にしてはみんな一様に笑顔だったし、妙に説明口調なのも気になる。 アイヴィーはまたちょっと考え込んだ。 ケンカをした二人の男たち。彼らもまた、揉めながらも嬉しそうな笑顔を見せていた気がしたのだ。
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