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1 おさいのこと
木枯し一番が吹ているのだろう。しかめっつらして、頭巾のようにした大番の布の、襟元に垂らした端をぎゅっと握る。
六薬堂の店主の詩乃は、甲州街道へ向かう道すがらにある、通いで診に行く長屋でも、最も遠い、樫長屋へ向かうところだった。
大きな樫の木を中心にして井戸が掘られ、長屋にしては珍しい放射型に作られていて、比較的新しい人が棲みついてできた場所だった。地方からの出稼ぎ者の集団なので、他と違いいろんな職種が集まっていることもあって、大工や建具屋そういった人たちが協力して作った、だいぶ他所とは違う長屋に来ていた。。
この日最後になったのが、おさいという年増―大江戸時代では、年増は三十五歳以上四十五歳未満とする―で、一度は嫁に行く算段だったのだが相手方が岡場所の女郎に入れあげ無理心中を図った。命に別状はなかったが、そんな男のもとへ嫁にやるのは忍びないと父親が判断した結果、今まで独り身で通り、もうすっかり嫁の当てなどない年になってしまった。
それでも、性格は明るくて気立てのいい女なので、後妻として入る口もあったのに、その時には母親が病に倒れ、死亡。さらにいい相手が見つかった時には、父親が大怪我がもとで働けなくなり、その看病と仕事でそれも逃してしまった。
そしていよいよ大台という頃になって、様子が芳しくないと、行きつけの小料理屋の女将おしまから、
「ねぇ、頼むよ。おさいさんて人は良い人なんだよ。ぼろ着物も上手にきれいに直すほど手がいいし、それだのに、ここ最近家から出てこない。出てきても飯を用意したらあっという間に帰ってしまう。以前は、もうこのくらいで勘弁しておくれって、頼まなきゃいけなかったほどしゃべりこんでたのに、今は誰とも口を利かないんだよ。
そりゃね、なんかの願掛けかもしれないから、無理やり話すことはないよって声を掛けたら、そういうんじゃないんだって、じゃぁ何だって聞いても、うーうー唸ってばかりでね。もう、あたしは心配でさぁ」
というので、おしまの店では半値で食事をさせてもらっている以上、むげにするわけにもいかず、朝から歩いてここまで来て、診療をしていたのだ。
世話好き長屋だというだけあって、昼餉はみなが用意してくれたので、満足にごちそうになった。
「おさいさん? あたしは六薬堂という薬問屋の店主をしております、詩乃と申します。小料理屋おしまの、おしまさんから、あんたの様子を見て欲しいと頼まれましてね。いやねぇ。薬屋と言っても、」
詩乃は後ろを見る。長屋の女将さんたちにおさいの様子も聞いて居た。
まったく出なくなってから半年ぐらい経つはず。出なくなった理由は解らないが、ある時急に飯の用意以外は出てこなくなった。というのだ。それ以上のことはまるで解らないらしい。
詩乃は、女将さんたちに微笑み、おさいの家の戸を開けて中に入った。
「ちょっと、」
けだるげな声だったが、反抗しようとか、抵抗しようとか、追い出そうとする気力は全くなかった。
詩乃は口の端を上げ、人差し指で静かに。と合図を送ると、
「いやぁね、おしまさんからお金を、前金をもらってるのでね、どうしても、一応は診ておかないと、へたなことを言うと、おしまさん、すぐ解っちまうし。そうなると、今までのつけを倍で返せって脅されたんでね。ねぇ、上がりますよ?」
詩乃のあまり抑揚も、感情もない声、部屋に上がった音、衣擦れの音、
「あぁ、脈が弱ってますねぇ。ちゃんと食べれてます?」
と、どこまでものんきな声の後、
「あぁ、あれですね。昼と夜を逆転しちゃってるんですね。あぁ、夜のほうがはかどるんですね。解りますよ。昼はにぎやかですからね。なるほど、なるほど」
詩乃は無駄に大声を出し、土間に行き、草履を履て戸を開ける。
「傀儡、」
というと、演劇の黒子姿の、背の高い、多分、男。だと思うが、いかんせん顔まで黒い布を垂らしているし、横からちらり見えるであろう顔にはお面が付けられている。それが、おさいの家の前で操り人形を取り出したおかげで、子供の歓声が上がり、耳をそばだてていた近所の住人からは全く中の様子が聞こえなくなってしまった。
「止まりましたか?」
詩乃は再び脈を図るために手を取りながら言った。
おさいは詩乃に握られていない左腕で顔を覆い、しくしくと泣き出した。
「あ、あたしは、もう、終わりなんですよ。子供が産めないなんて。産めたらまだ、あたしは、あたしは、」
詩乃がおさいの腹を軽く触る。
「女の幸せを味わえない。あたしは、不幸なんですよ」
おさいはそう言って鼻をすする。
「子供を産むだけでいいんですか?」
おさいが腕を少しずらして詩乃を見た。
「いえ、ちゃんと育てますよ。そりゃ」
「……そうですか?」
「当り前じゃないの? 産んだら、育てますよ」
「……でも、あなたの言い分では、産みたかっただけのように聞こえましたけどね」
「何言ってるのさ。産んだら、育てる。当たり前でしょう?」
「……じゃぁ、産めないなら、育てられない?」
「はぁ? 何を言ってるんです? 産んでないものを、育てられないじゃないですか?」
「つい先だって、火事がありましたでしょ? あの火事で取り残された子供が五人ほどいるんですよ。うち、男四人には奉公先が決まったけれど、一番小さい女の子は誰も引き取り手がなくてね。奉公先が決まっていた中に、その子の兄というのが居ましてね、妹と一緒じゃなきゃと言って、奉公へ行かないと言って、今、近くの寺の軒先で住んでいるんですよ。
親の居ない子供。子供のできない大人。どうです? 世話してみませんか?」
「……、あんた、薬屋だって言ってなかった?」
「薬屋ですよ。一応、ゆっくりと夜眠れるように、夕食後、落ち着いてから飲む薬を出しておきます。食後慌てて飲まず、片付けを済ませ、ほうっと一息ついた時に飲んでください。そういう気の休まった時に飲むとよく効きますから。
あぁ、あと、飲み忘れたからと言って、別にどうこうなるものでもありません。忘れるくらいならなおよし。ただ、飲まなきゃいられない。という時には、ご足労ですけどね、六薬堂のほうに来てくださいな。
でも、薬だけではこればかりは治りませんでね。かといってどうしようもないのでは、おしまさんに……、借金が……。
そこでね、ここへ来るときに、寺の世話をしている人に追い出されるかのように箒で追い掛け回されていた子供たちを見てね、世話する人が居れば、あの子たちもあんな目に遭わないですんだろうに。火事にさえ遭わなければ、母親のもとに居られただろうに。不憫。不憫。と思いながら来たのでね。
そしたら、おさいさん。あんたが、子供が欲しいだの言うから。どうだろうか? と、言ってみただけで、別に、世話しようとか思っていたわけじゃないんですよ。まぁ、あの子らは、あのままあの寺も追い出され、……人買いに買われ、……まぁ、あとは想像どうりでしょうけどね。
あらあら、外の芸が終わったようですからね。一応、ご近所には、注文の仕事が立て込み、夜作業をしていたら昼と夜と逆転してしまった。とそう言っておきますよ。まだまだ仕事が山積みのようなので、そうっとしておいてくれってね。それじゃぁ、あたしは帰りますんでね」
「……あ、あの、ちょっと、」
「お代は、おしまさんからいただいてますから、」
「そうじゃなくて、その、寺っていうのは、あの、銀杏の木のある寺かい?」
「ええ。そうですよ……それじゃ」
戸を開けると、女将さんたちの興味津々な顔が集まっていた。おさいに言ったような内容を告げると、
「まぁ、おさいさんの裁縫の腕はいいからね」「確かに、昼間は明るすぎるとか言ってたっけね」「じゃぁ、心配しなくていいんだね」「でもあれだよ。売り子が来ても買えないんじゃぁ、ちょいと世話を焼こうかね」
という会話の中詩乃は傀儡と帰る。
子供たちが傀儡についてきたが、母親たちの呼び止める声がして、傀儡は素早く走り曲がった。子供たちが駆け寄ると、角からえらく別嬪の女が出てきて、危うく子供の一人がぶつかりそうになった。
「大丈夫かえ? 元気が余ってんだねぇ」
言い方は甘いのだが、どこか引っかかる……声の低さが、女のそれより低い気がするのに、高い時もあるし、子供たちが首を傾げるのを、
「からかうのはおよし。さ、おっかさんたちが呼んでるからお帰り」
詩乃の言葉に子供たちは素早く頭を切り替えて走っていった。
「女に化けるこたぁないのに」
「男だと、並んで歩けないでしょ。詩乃さんだって、一応は女なんだから」
「別に気にしちゃいないけどね」
「気にする人は居ますけどね」
傀儡の言葉に詩乃は首をすくめた。
後日。おしまの店で、小鉢がもう一つ置かれた。
「おお、これは、新物の佃煮?」
「ありがとうね。あれから、おさいさん、火事で親が居なくなった子供を二人引き取ることにしてね。寛太とゆりって言ってね。二人とも、急に現れたおさいさんを怪しく思ったようだけど、あたしを助けると思って、一緒に暮らしてくれないかって泣いたら、付いてきてくれたって。
数日はまだ昼間起きる時間が少なかったようだけど、あっという間に元のおさいさんに戻るし、立派なお母ちゃんになってたよ。本当に感謝しかないよ。
それに、詩乃さんにもらった薬、数日飲んだら、あとどこへやったか忘れちまった。とか言ってたよ。やっぱり、あんたんところの薬は効くんだねぇ」
詩乃は口の端を緩めただけだった。
目の前に座っている番頭も同じような顔をしている。
―あれ、ただのでんぷん粉。とは、言えない。言えない―
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