0人が本棚に入れています
本棚に追加
『五月雨』
雨粒に、耳が揺れた。
天高く伸びるそれは、雨音が床板に跳ねる度ぴくりぴくりと反応する。まるで音が波となって彼の耳を揺らしているように律儀に何度も、跳ねる度にそれは揺れる。
六畳一間の小さなスペースに、見知らぬ狐がやってきたのはついこの間。狐といっても図鑑に載っているその様では無く、見た目は五歳ぐらいの少年で、おあつらえ向きに耳と尻尾がついている。
決してそういう趣味があるわけではないけれど、一緒に過ごすにつれその可愛らしさが骨身に染みてくるのがわかる。これはかわいい。なまじ人型を保っているだけに背徳感はあるけれど、犬猫のような可愛らしさを感じることをどうか許して欲しい。というか行き場の無い迷子をかくまっている点を鑑みれば、プラスマイナス相殺される気がする。
――なんて自分のいいように解釈しつつ、彼との奇妙な共同生活はもうすぐ一ヶ月になる。彼には名前は無く、愛着が着くから私も彼に名前を付けない。だけれどすでに『愛らしさ』はたまらなく感じているわけで……名前を付けるべきなのだろうか。悩む私をよそに、自称狐の少年は先ほどから網戸に身体を押しつけながら、じっと外を眺めている。
「あめ、はれてるのに、あめ」
梅雨時には珍しく、厚い雲の中に青空が覗いていた。狐の嫁入りと呼ぶには弱い晴れ間だけれど、少年には随分と珍しいらしい。瞳をぱちくりと瞬かせながら、振り返り「あれ」と空を指してまた網戸に張り付く。そのあまりの熱心に、私は彼を持ち上げて網戸から引き剥がした。賃貸のこのお部屋の網戸はさほど頑丈ではないはずだ。破れて居ないことを確認し、少年を脇に置く。
そうして水音がひとつ。ぴしゃりと音と共に、耳が再び揺れる。
「はれてるのに、ふるのねえ……」
何度も網戸へと向かおうとするので腕で制していたら、少年は諦めたように私の膝の上に手を乗せて、空を仰ぎその瞳を瞬かせる。悟ったような物言いに私も空を見上げて、池ほどの小さな晴れ間を見つめる。きっとすぐ埋もれてしまうような青空。雨の中ぽっかりと開いたそれはどこか化かされたように浮世離れしていて、非現実な少年と見比べて、ため息。
「こういうの、狐の嫁入りって言うんですよ」
いや、本来ならばもっと晴れ間が広いときに言うのだけれど。さして間違いはないはずだ。少年は私の言葉にまた瞳を瞬かせ「きつね」と繰り返す。「の、嫁入り」と続けても、彼は意に介すること無く「きつね」と味わうように反芻する。
そうして再び雨粒が降る。先ほどよりも間隔を狭めて、断続的に、地面を打つ。
不思議なことにこうしてたくさん降り続けていれば、彼の耳は動かない。香る湿気た空気と共に窓ガラスを叩く雨粒。窓を閉めれば、薄暗い街と重なって、窓を見つめる私たちが映っている。
叩き始めた雨風に乗って、雲が流れて晴れ間を埋める。少年は消えていく晴れを「あ!」と名残惜しそうに声を上げた。
「おれがきえる!」
何度も手に体重を乗せて跳ねるので「消えてないじゃないですか」と返せば「きえないけどー!」と何度も何度も跳ね上がった。何気ないその言葉に、消えないのか、と安堵の息を漏らしてしまう私は、もしかしたら重症なのかもしれない。絶えず跳ね続けるその姿を見つめながら「名前なあ……」と零せば、ぴくりとまた、耳が動いた。
最初のコメントを投稿しよう!