高学年ディサービスの体験。娘小学4年生・5月

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高学年ディサービスの体験。娘小学4年生・5月

 今日は小学四年生以上の子供たちを預かるディサービスの体験へ行った。  そこの児童発達管理責任者さんは、就労支援の施設で六年の勤務経験があり、就労支援にむけて四年生から支援をしていきたいという思いから、この施設を立ち上げた、という話だった。  各曜日で活動は違うらしく、娘に聞いたところ、運動をしてみたいとのことだったので、近所のフットサルコートで軽運動をする日に体験へ行った。    最初は「運動の日かぁ。もっと生活のことを教えてくれる日の方がいいんじゃないかな」と思っていたけれど、実際に体験の様子を見て、やはり運動の日でよかったように思えた。飛んだり跳ねたり走ったり、生き生きした表情の娘がいた。  あっという間の一時間を終え、娘は「このディに来たい」と言った。思い切り遠慮なく体を動かし、発散できる場は、私が思っていた以上に、彼女に必要だったようだ。    私の見立てだけれど、娘は私と同じで気分の浮き沈みが激しい。楽しいとき、うれしいとき、テンションが上がりすぎて、大声が出たり手が出てしまう。その一方で、急にだまりこんで、ぼんやりと外を眺めているときもある。声をかけると、「なんでもない」と答えるが、後から「悩みがあるんだけど」と打ち明けてくれることがある。  娘はもともとASD及びADHDの診断を受けていて、学年が上がるにつれて、学校生活に適応はできてきている一方、多動や衝動、繰り返しを好む傾向は「定型」と呼ばれる子たちより強いように感じる。  それらを「完全になくす」ことはできないだろう。なぜなら、それが彼らの「個性」だからだ。いくら我慢させても、それは心の内側にたまっていくだけ。それならその「個性」を周囲に受け入れてもらうことが必要なのだろうか。それも違うように感じる。  「これが私なんだ。だから周りは受け入れろ」では、わがままと取られても仕方がない。それをみんなが言い出したら、一緒に生きていけなくなる。ベタだけれど「人という字は支えあう」のだから、個性的だろうが定型だろうが、互いに話し合い、認め合うことは必要だろう。  周囲との違いに苦しむことは、避けられない。ならば、その苦しみをリリース/放出する方法を見つけていくことも、大事なことのように感じた。
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