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あー疲れた。と玄関を開けるとキッチンに人が立っていて思わずよろめき、その拍子に背中と頭をドアに強かに打った。
「おかえりなさい……って、大丈夫ですか?」
怪訝そうに言う相手に、ぶつけた頭を擦りながら何からどう話せば。と、とりあえず深呼吸を一つする。
「お前、どうやって入った?」
「管理人さんに、従兄弟なんですけど今日泊めてもらうって約束忘れられたみたいで。って話したら開けてくれました」
「不法侵入って言葉知ってるか?」
ぶつけたのとは別の意味で痛み始めるこめかみの辺りを押さえると、ふ、と目の前が暗くなり、顔を上げた時にはもう唇同士が重なっていた。
『無駄に大人ぶった表情しやがって』
という言葉は一旦飲み込み、満足げに離れていくのを溜め息混じりに見送る。
「風呂入る」
「あ、待って」
横を通り抜けた瞬間後ろから捕まえられ、首元に顔を埋められた。
「お、ま……!?」
「いい匂い。好き」
自分でも臭っ。と顔を顰めたくなる汗の匂いに、絢斗は頬を寄せたまま離れようとしない。
「い、いい加減、離れろって……」
「やだ。ねぇ、抱きたい。ダメ?」
ぐっ、と腰を引き寄せられると背中に当たる何かの感触に、ぞわりと肌が粟立った。
「ふ、フライパン、焦げるぞ」
「あ、やば」
力が緩んだ隙に腕の中を抜け出し、ユニットバスの中へ身を滑り込ませる。
汗臭い衣類を脱ぎ捨てて、シャワーを浴びた。
『最近の若者ってのは悟り系じゃなかったのかよ……』
がしがしと頭から顔、身体を洗い、シャワーで流す。
『あ、また髭剃り忘れたな』
と洗面台の鏡を見て思いつつ、まあいいか。とざっくり身体を拭いてユニットバスの扉を開けた。
肉の焼けたいい匂いを嗅ぎつつリビング兼寝室の戸を開けると、我が家の如く寛いでいる絢斗の姿がある。
「ビール飲んでもいいですか?」
「別にいいけど……」
「ありがとうございます」
何だこれ。と思いつつ、クローゼットを開け下着とスエット、Tシャツを身に着ける。
「スバルさんもビール呑みます?」
「おー」
適当に髪の水気を拭いて首にタオルを掛けたままテーブルの前に腰を下ろすと、目の前にビールを置かれた。
「んぅえ!?」
何気なく手に取ってその銘柄に思わず声が出てしまう。
いつもの安い第三のほにゃららではない、プレミアムの名を冠した正真正銘本当のビール。値段はそれの二倍を超える、給料日だしなぁ。という時しか飲まないプレミアムなやつ。
ちなみに、俺の冷蔵庫にそんなものは当然常備などされているはずがない。
ビールと置いたやつの顔を交互に見ていると、訳が分からない。という表情のまま、プシュ、と小気味良い音を立てて自分の分の缶を開けている。
「お前な……いや、まぁ、いいわ……」
このままだとマジで養われる側になるかもしれん。と思いつつ、続いて缶を開けて一口啜る。
美味い。マジで美味い。労働の後のプレミアムなやつ最高。これがコイツの奢りでなければ尚良かったが、それも流せるくらいビールは美味い。
「いただきます」
自分が用意したメシに、律儀に両手を合わせてから箸を持つ絢斗。
ますます、この狭い1Kにそぐわない育ちの良さだ。
というか、本当に男くさいボロアパートにミスマッチだよなこいつ。
「い、いただきます」
ぎこちなく自分も手を合わせ、綺麗に盛り付けられた生姜焼きに箸を伸ばす。
美味い。が、こういう時はそう言うべきなのか?恋人でもない、野郎同士で?と視線を向けると、ふい、と逸らされた。
「……美味い、と思う」
「それは、どうも」
絢斗の返事は素っ気無いが、髪の隙間から見える頬がじわっと赤くなり、どうにもむず痒いような気分になった。
『美味しい?じゃ、また作るから』
聞こえるはずのない、嬉しそうな元カノジョの声を掻き消すためにビールを一口飲んだ。
「今日このまま泊まってもいいですか?」
甲斐甲斐しく後片付けを済ませた絢斗が隣に腰を下ろしながら、上目遣いで見上げて来る。
俺より身長高いくせに、こういうところは抜け目なく計算高い。
「その顔、普通に傷付くんですけど」
無意識にぎゅっと寄せてしまっていた眉間の皺に、絢斗は小さく唇を尖らせる。
しかし、傷付く。という言葉だけでは終わらないのがこの手練れだ。
流れるように首に腕を回し、重い。と言わせない程度に身体を寄せて額を摩り付けてくる。
この前とは違う、あっさりとした香水の匂いが俺の肺を充たした。
「明日仕事行けるように、中には挿れないから」
それはどういう気遣いだ。と、言葉に出す前に、もう唇を塞がれ長い睫毛の向こうは天井になっている。
「が、っこう、は……」
「ちゃんと行く。だからーーお願い。スバルさん」
捨てられた子犬のような表情で見つめられると、無下にもしにくい。というか、こうすれば俺が断り切れずに受け入れるだろうと分かってやっているのだろう。
そこまで分かっているならいっそ断れよ。と冷静なもう一人の自分もいるが、断った後の悲しそうな表情を想像するとやはり後味が悪い気がする。
あー……クソっ……。と、心の中で呟き、目を閉じて絢斗の背中に腕を回した。
平均身長よりはやや高いおっさんと、それより更に高い成人男子。その二人で寝るには、セミダブルのベッドは窮屈だった。
眠れなかったわけではないが、朝まで熟睡。というわけでもない。
「寝れたか?」
既に起きて身支度を整え終えている絢斗に声を掛けると、ふ、と笑顔だけを返され、思わずまた眉間に皺を寄せた。
「じゃ、俺帰ります」
当たり前のように、ベッドで半身を起こしていた俺に唇を重ね、それから背を向ける。
「ちゃんと学校行けよ」
「行きますよ」
そんな会話をして、扉が閉まる。
これのどちらかの性別が違えば、ごく自然な風景だ。
年齢差、もーーまぁなくもない。
『受け入れてくれる存在が欲しい』
と、言った絢斗。
拒絶しない大人と、その大人の欲を充たす存在。
歪だが、互いの利害は一致している。
『まあ、今どうのこうの言ったところで聞くわきゃねえだろうしな』
子どもとは、そういうものだ。
大人がいくら間違いを指摘し正しい道を示そうが、それを受け入れる器量がない。だから子どもなのだ。
『そのうち目が覚めんだろ』
手を伸ばした顎で、髭がざり、と音を立てた。
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