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「おはようございます、芥川さん」 「、はようございます」  記録用のバインダーを事務の井口さんから受け取りながら、じっとその顔を見つめる。  何か、いつもと違う違和感があったからだ。 「……あの?」 「あ、髪……可愛い、っすね」  いつもは後ろで一つに纏めている長い髪が、今日は左側に一つに纏めて結ばれ、少しカールが掛かっていた。 「ありがとうございます」  はにかんだように笑い、井口さんは両手で口元を隠す。  その仕草は本当に可愛いらしい女性特有のもので、今朝も髭を剃り忘れたことを深く後悔した。 「今日も頑張ってくださいね」  小声でこっそりとそう言われ、「っす」と返して自分のトラックに向かった。 『メシ誘え』  先輩の言葉がぐるぐると頭の中で渦を巻く。  そりゃあ、誘って喜んで来てくれるのなら、誘いたい。  が、井口さんほど可愛い女性なら、こんな安月給の肉体労働野郎より専業主婦で養ってやれるスーツの男の方が釣り合うだろう。  サイドミラーに映る無精髭のおっさんに、ただただ深い溜め息が洩れる。  助手席に適当に置かれたスマホが、また他愛もないメッセージを受信して震えていた。  一日の仕事を終え、記録を井口さんに手渡し廊下の自販機でコーヒーを買う。  ちら、と事務室の中を伺うと、井口さんはまだパソコンの画面を見つめていた。  小銭を自販機に追加し、少し迷った末にミルクティーのボタンを押す。  それを取り出したタイミングで他のドライバーが帰って来て井口さんの元へ向かい、慌ててミルクティーをポケットにしまった。  コーヒーを飲みながらちら、と目を向けると、二人は楽しそうに談笑している。  三十手前の男と、三十も折り返しの男。  がしがしと頭を掻き、飲み干したコーヒーの缶を捨てて事務所を出た。  鍵を開けて入った自分の部屋は、当然灯りも付いていないし料理の匂いもない。  ポケットにしまったままのぬるくなったミルクティーを冷蔵庫に突っ込み、シャワーを浴びた。  ジャリ、と指に触れる髭を剃り落とし、汗臭いシャツを洗濯機に投げ入れ、ついでに身体と髪を拭き終えたバスタオルも入れてスイッチを押す。  コンビニで買った弁当を温めている間に、冷蔵庫から冷えた安い発泡酒を取り出して一口飲む。 「あー……」  当たり前だが、昨日のよりも不味い。  ふと視線を落とせば弛みかけただらしない腹周りが目に入り、鬱々とした気分に拍車を掛ける。  こんな冴えないおっさんに、あんな可愛い女の子が気を向けてくれるはずがない。  温まった弁当を食べ、ビールを飲み干し、そのままベッドに突っ伏して眠りに落ちた。  次の日も、井口さんは緩いカールのかかった髪を左側に纏めていた。 「っす」  と、バインダーを受け取り踵を返そうとすると、「あの」と声を掛けられ足を止める。 「髭、剃っちゃったんですね。似合ってたのに……って、すみません」 「あーーっと、じゃ、今度また伸ばそっかな……ははは」  と、目を泳がせつつ返すと、「わたし毎日芥川さんのこと見てますから」と、また口元を手で覆いながら井口さんははにかんだ。  変な気を起こすな。と自分に言い聞かせつつ、今度こそ踵を返してトラックに向かう。  シートベルトを締めて最後に確認したスマホには、絢斗からのメッセージがいくつか表示されていた。 『デートしたい』 『会いたい』 『少しでいいから』  そのメッセージに『あとで』とだけ返し、トラックのエンジンを掛けた。 「芥川さんて、ご飯とか作るんですか?」  いつも通りバインダーを受け取った井口さんが、他にドライバーがいないことを確認しつつ話し掛けてくる。 「いや、大体コンビニ」 「えー、飽きません?」 「飽きたらコンビニ変えるからさ、ハハハ」  と、頭を掻くと、また一度周囲を確認し、井口さんが俺を見上げてくる。 「芥川さん、カノジョとかいないんですか?」  こそ、っと小声で問い掛けられ、「あー……」と視線を彷徨わせる。  ふと、絢斗の顔が浮かんだが、あれはカノジョともカレシとも違うだろ。と慌てて掻き消す。   「芥川さん、て……じゃあ、どういう人が好きですか?」 「そ、うなー……」  ぱっちりとした大きな目で見つめられ、じわっと背中に汗をかいた。 「かわ、いい、系?」  なんとか絞りだした言葉に、井口さんは「なるほどー……」と深く頷く。  絢斗なら、ここで「井口さんみたいな」と付け足すのだろう。多分。  しかしこんなおっさんにそんな芸当が出来るはずもなく。 「あ、呼び止めてすみません。お疲れさまでした。澤井さんお疲れ様でーす」  別のドライバーが事務所に入ってきたことで、強制的に会話は終了となってしまう。  入れ違いになるように俺は事務所を出て、ちら、と後ろに視線を戻す。  井口さんはやはり、そのドライバーとも笑顔で言葉を交わしていた。 『雑談だ、雑談』  昼ぶりにスマホを覗くと、『ここ行きたい』とレトロな喫茶店のリンクが送られてきていた。  次の休みは来週末。  少し悩んでから、『来週の土曜日なら休み』と返信を入れた。
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