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 朝、事務所の前まで来て、そういえば昨日かなり気まずい別れ方を井口さんとした事を思い出す。  しかし仕事は仕事。腹を括って中に入ると、いつもと変わらず笑顔で「おはようございます」と、バインダーを渡された。  昨日はーーと切り出すより早く視線をパソコンに戻され、出かかった言葉を飲み込み踵を返してトラックへ向かう。  俺の見た目が絢斗だったら、井口さんの態度は違っただろうか。  エンジンを掛けつつ、大きく息を吐く。  馬鹿正直に剃るのを止めた髭が、またまばらに伸びてきていた。  順調にルートを進みながら、途中のコンビニで休憩をとる。  そういえばスマホが静かだな、と気付いて確認すると、『終わった』『家着いた』という二つのメッセージのみが届いていた。  どう返したものかと思案し、『おつかれさま』とだけ送って冷たいペットボトルの緑茶を飲み干す。  眠っているのか、いつもならすぐに再び震え始めるスマホは沈黙を保ったままだった。  事務所に戻り、バインダーを井口さんに提出する。そのまま背を向けて廊下に出ると、入れ違いに若いドライバーが中へ入って行った。  何の予感か、俺は足を止めて自動販売機の前で飲み物を選ぶフリをして耳を澄ませる。 「日曜日予約取れたよ」 「本当ですか?嬉しい~」 「朝駅まで迎え行くから」 「ありがとうございます、楽しみ~」  聞き取れた会話に溜め息をつき、適当にボタンを押して出てきたものをポケットに突っ込んだ。  タイミングが違えば、あそこにいたのは俺かもしれない。と、思うのは自惚れだろうか。  いつもより疲れたように感じる身体を引き摺りながら玄関を開けると、また部屋の電気が点いている。  不法侵入。と思っていると、リビングの扉から絢斗が顔を出した。 「おかえりなさいーーって、酷い顔してますね」  お前のせいで、な。と、ぶつけるのは簡単だが、ぶつけたところで井口さんが俺にもう一度チャンスをくれる訳でもないわけで。  ただ一つ、溜め息をついた。  賢いーーというか、こういった事の場数を踏んでいる目の前の男は、すぐさま事情を察しゆっくりと俺を抱き寄せる。 「スバルさんーー目、閉じて」  自暴自棄に近い気分で言われるまま目を瞑れば、”絢斗”の香水の匂いと唇の感触が降ってくる。  風呂が先。というのも、何だかもうどうでも良かった。  手を伸ばせば触れられる存在がそこにある。  絢斗には悪いが、適齢期を逃した独身が犬だの猫だのを飼う理由が少し分かった気がした。  独りが当たり前だったが、ある時二人でいるということを知って。そうなると、独りが当たり前だった感覚には戻れなくなっている。  今日絢斗が部屋にいなければ、まあ死ぬーーまではいかないにしても、明日に影響が出ないということは無かっただろう。  そもそもこいつと出会わなければーーというのは、もう考えるのを止める。 「でけー犬……」 「え、俺犬?」  ポロっと零れた言葉に、絢斗は俺の髪を梳いていた手を止める。 「犬かぁ……」  うーん。と複雑そうな表情で唇を尖らせた。   「まぁ、いいけど。……よくない、けど」    いいけど、よくない。というのを繰り返しながら、ずっと唇を尖らせている。  仕方なく、その尖った唇に自分のを重ねる。  こんなおっさんとキスなんかしたって、髭が当たって痛いだけだろうに。  だが絢斗は嬉しそうに白い歯を覗かせ、ますます擦り寄ってくる。 「スバルさん大好き。養いたい」 「年下に養われてたまるか」 「ねぇーースバルさん」  腕に込めていた力を緩め、絢斗は俺の頬をまるでガラス細工か何かのようにそっと手で包み込む。 「俺のこと、ずっと好きでいてーーそしたら」  低く、甘い声で、絢斗は形の良いピンク色の唇を動かし、言葉を紡ぐ。 「俺もーーずっと、スバルさんのことーー愛すから」  前言撤回。こいつは、犬なんて可愛いもんじゃねぇ。  じわじわと獲物を締め付け、鋭い牙を突き立てて毒を注ぎ込み、丸ごと呑み込む毒蛇だ。 「はいはい」  真っ黒な目をギラギラと光らせる絢斗の髪を適当に撫でつけ、先程とは逆に俺の胸の中に抱き込む。 「明日も仕事だからなーー寝るぞ」  そう言って中々お目にかかれない頭のてっぺんに唇を落としてやると、「ん」と子どもらしく返事をよこした。  まさかこんな歳になって、大学生のガキーーそれも男、とこんな関係になるとはな。と自虐的に笑い、明日に備えて本当に眠ることにした。
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