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今思えば、ことの始まりはあの朝だった。
「・・・ん?」
セキュリティを解除して室内に入ると、オフィスの中はすでに電気がついてパソコンのキーを叩く音やコピー機の動作音が聞こえてきた。
「・・・よう、朝っぱらからどうしたんだ?」
せわしなく働く二人に声をかけると、彼らは同時に顔を上げた。
「あ、おはようございます、八澤さん」
手元の書類をまとめながら蜂谷薫がゆったりとほほ笑む後ろで、せわしない打鍵音を鳴らし続ける夏川瑛は一瞬目線を上げ小さく会釈する。
「何か問題が発生したのか?誉からはなんも知らせは来てなかったが」
この会社は小規模な人数で運営している会社だ。
そして社長である宮坂誉の性質上、自分たち部下との距離は近い。
だから、不測の事態が起きた場合の連絡と対応はかなり迅速な方だと思う。
「深夜に判明したので、宮坂さんが八澤さんに知らせるのは翌朝で良いと」
個人の裁量で勤務時間を決めていいため、出勤時間はまばらだ。
取引の関係上、公表している営業時間は九時半から十八時。
しかし八澤晶は七時には必ず出社すると決めている。
なぜなら。
「俺が、ここで朝飯食うからだな」
蜂谷はふと手をとめて少し困ったような顔をした。
「・・・まあ、そんな感じのことを言ってました」
蜂谷たちは自分より六歳下で、学生アルバイトとして雇用して以来の部下だ。
程よい距離は保ちつつも、気心の知れた仲だと言える。
「で。何が起きた」
「庄野さんが今日から一週間巣ごもりです」
「ああ・・・それか」
庄野はバース特性でアルファだ。
そして数年前からのパートナーがオメガであるため、年に数度こういう事態になる。
『巣籠』、つまりオメガの発情から発動する交尾期間。
個人差があるらしく一概に言えないが、庄野たちの場合は『巣籠解除』に一週間かる。
そもそもバース特性を持つ者は国内で稀なはずなのだが、この会社ではそう珍しくない。
彼らの特殊性を面倒に思う会社は雇うことを避けると聞くが、宮坂は逆だ。
むしろ集めているように見え、尋ねたことがある。
すると宮坂は『相変わらず直球だねえ、晶は』とへらへら笑った。
答えは是。
『僕に言わせたら、優秀なのに仕事にあぶれるとかって、わけわかんないよ』
そして、彼は奇抜な社内規定と方策を次々と編み出した。
そのうちの一つは『巣籠』を知らせる機器をいくつか作り、バース特性の社員に配布したこと。
オメガの発情は定期的ではない。
何らかの要因が重なりそれがトリガーになって突発的に起きるらしい。
そしてそのオメガの発情フェロモンに誘発されたアルファもまた雄の本能に支配される。
彼らは発情した場合、心身ともに余裕がなくそのまま巣籠に入ってしまい長時間連絡が付かなくなることもあるため、予防策だという。
連絡が付かないのは事件や事故なのか、急病なのか、それとも巣籠なのか。
その区別をつけるために運用してみると実際役立った。
そして巣籠休暇に入った社員の代わりができるよう、ある程度の情報共有と引継ぎの事前訓練。
結果が、今朝の蜂谷たちの仕事ぶりということになる。
「とはいえ、これは俺の仕事だろ。悪かったな」
庄野と組んで法務の仕事を担当しているのは八澤だ。
蜂谷と夏川は財務がメインで、代行させられるいわれはない。
「まあ被る部分多いし、資料作りなら俺たちで十分なんで」
指先で眼鏡を軽く押し上げつつ蜂谷がちらりと視線を送った先は夏川。
社内随一の資格マニアとも呼ばれる彼が昨年とうとう司法書士の資格を取ったため、忙しい時には仕事を手伝ってもらい易くなった。
「八澤さん、俺がやってるの仕上がったら確認してもらいたいので、今のうちに朝食摂ってください」
手を止めモニターから顔を上げた夏川がまっすぐな視線を向けてきた。
「今日の交渉は、八澤さんに出てもらわないと困るんで」
彼はいつも無表情だ。
口数も少なく、何を考えているかわかりづらい。
しかも口を開けばぶっきらぼうだ。
自分の直球もたいがいだが、夏川には負ける。
なのに、めったに見ない美形だ。
長めの前髪の間からのぞく薄く緑がかった瞳があまりにも綺麗で、見つめられると一瞬こちらも反応の仕方がわからなくなる。
だけど最近、慣れた。
そして気付いた。
意外なことに、最近夏川が自分と庄野に懐きつつある。
だから今、本気で夏川は自分に朝飯を食わせておきたいことも理解した。
「ん、わかった。ところでお前たちは?」
「あ、俺らはあとでゆっくり食いますよ。社長からたんまりお手当もぎとって」
にやあと、蜂谷が珍しく腹黒そうな笑みを浮かべた。
どうやら、今日の使いっ走りに思う所があるようだ。
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