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「いや、チェンジ決定したから。無理」
「・・・は?」
「これからは晶が担当って、先方にも伝えたよ」
思わず、宮坂の顔を二度見した。
いや、正確には凝視したまま固まった。
オフィス内の空気も同じく凍結状態だ。
全員、固唾をのんで…いや好奇の目で見ている。
「まーさーか、あんなことやらかしといて、はい、担当違ったんでーって逃げられると思ってんの。甘いねえ」
『やらかしといて』と言いながらも、責めているのではなく面白がっているのは、声と表情から十分にわかる。
「・・・まさかとは思うが、こうなるのを狙っていたとか言わないよな」
「なに、その深読み。見当違いもいいとこだよ」
頬杖ついてにやにやと笑う宮坂に、誰もが悟ったに違いない。
見事に嵌められた、と。
「・・・別の意味でやらかしましたね、八澤さん・・・」
ぼそっと背後から降ってきたささやきに、すかさず後ろ足で蹴りを入れた。
「あ・・・。はちや・・・」
蜂谷の向う脛にうまくキマったらしく崩れ落ちるような音とうめき声が聞こえ、夏川がぽやんと声をかけたのも想像がつく。
そんなのわかっとるわ。
ここのところあまりにも仕事が順風満帆で、そんな毎日に宮坂が飽きてきている感じはしていた。
だからと言って。
「・・・あんまりだろう、誉」
「いやいやいや、誤解だから。ちょっと思いついちゃったからさあ。もっと面白いこと」
「は?なにを」
「はいはい、怖い顔しない。せっかくの美人が台無しだって、晶」
「はああ?」
こいつの性根を早々に叩きなおすべきだったと深く後悔した。
「俺は、お前を甘やかしすぎたな・・・」
「いやもうほんとに怖いから、怒らないで聞いて。あのさ。これを機に蜂谷珈琲店とも業務提携させちゃおうかなあって」
「は?」
「え?」
膝を抱えて座り込んでいた蜂谷とうっかり同時に声を上げてしまった。
「前々から考えてはいたんだけどね。志水堂は茶道と結びつきが深いから日本茶に関しては申し分のないパイプをいくつも持っているけれど、それだけだから行き詰るんだよね。コーヒー、紅茶、烏龍茶。どれに合わせても美味して視覚的にも映えるってなれば、インフルエンサーが勝手に展開してくれる可能性もあるし。そうなると、蜂谷さんのところから色々仕入れた方が早くて確実だろう」
一理ある。
何店舗かある付属の喫茶室はどれも和菓子屋にありがちで平凡だった。
コーヒーと紅茶は一応メニューに含まれているが、全く話題に上らない。
「なら、なおさら蜂谷が仲介するのが筋だろう」
「まあ、ちょっとは関わってもらうけれど、メインは晶」
「なんでそうなる」
「だって晶、いずれは蜂谷さんのところに帰るつもりでしょ。なら今のうちにこういうの関わっとくべきじゃない?」
「それは・・・」
反論の余地がない。
宮坂と出会い一緒に働かないかと持ち掛けられた時、即座に断った。
自分は、このまま蜂谷珈琲店で働きたいと。
飲食業界に関わるあらゆる商いを行っているのを知っていたので、自分は法務関係の業務を引き受けて支えたいと思い、学んでいる最中だったからだ。
すると、宮坂は新たな提案をしてきた。
「じゃあ、僕のところでしばらく修行しようよ。多分飲食業も関わることになるし、即戦力のほうが蜂谷さんも良いでしょ」
まだ小学生のころ、父方の祖母が萌と自分を連れて行ってくれたのが蜂谷珈琲店との関わりの始まりだ。
自分たちが生れたころに助産師を引退した祖母は、共働きの両親に代わって面倒を見てくれていた。
時間の許す限り色々なところに連れて行っては様々な体験をさせてくれたが、その珈琲店で祖母と過ごすひとときが何よりの楽しみだった。
飴色の落ち着いた家具に囲まれて、コーヒーという大人の飲み物の香りが漂う中、萌と自分は軽食やジュースを食し、祖母とゆっくりとりとめのない話をする。
そんな時間がずっと続くと思っていた。
しかし、自分たちが中学校へ上がる直前に亡くなってしまった。
その葬儀になんとオーナーの蜂谷五郎氏が参列したのには正直驚いた。
ただの常連客のために出向くとはと。
そしてその時、お悔やみとともに彼は告げた。
「おばあさんからも言われたと思うけれど、うちにはいつでもおいで。今までのようにね」
その通りだ。
祖母は体調を崩して入院する直前、支度の手を止めて自分たちの顔をじっと見て言った。
「お父さんたちにはちゃんと話は通しているから、蜂谷さんのお店には今まで通り行っておいで。当面のご飯代はお前たちのお小遣いの口座に入れといたから」
あとで知ったが、『ご飯代』なんて金額ではなかった。
しかし、そのおかげで萌と自分は心置きなく蜂谷珈琲店に通うことができた。
最初は二人連れだって。
やがてそれぞれ思う時間に。
店内の奥で試験勉強をするのを黙認してくれ、高校生になってからは二人ともアルバイトとして雇ってくれたりもした。
要するに、かなり入り浸っていた。
なぜなのかはわからない。
実の両親よりもオーナーの蜂谷五郎氏のそばにいるほうが楽だった。
それは萌も同じらしく今もよく出入りしていて、あの場所こそが実家のようなものだ。
「・・・わかった。俺が蜂谷さんと志水堂の橋渡しをすれば良いんだな」
「まあ、そういうことだね。当面、晶を駆り出して空いた穴は復帰した庄野に埋めてもらって、瑛にもうちょっと法務業務の仕事を覚えてもらう」
もともと、この会社は全員オールマイティだ。
宮坂の手のひらで踊らされるのは頭に来るが、業務に支障が出ないことは予想が付く。
それに八澤が前面に出ることは珍しいが、初めてではない。
「ただし。ある程度めどが付いたら、すぐに戻るぞ。俺はあくまでも法務関係の仕事をする約束でお前と契約したんだからな」
「了解」
今の宮坂は、社長然としている。
しかし、その笑みはどこか楽しげだ。
こいつは、何を考えている。
引っかかるものを感じたがどうにも考えがまとまらない。
八澤は自席へ戻り、とりあえず仕事にかかることにした。
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