天のはかり竜のめざめ

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     花の香りがふわりと降ってきた。  優しくて、懐かしくて、甘い。  マンネンロウにカミツレ、土の匂い。  植物の息遣い。  これに包まれるのも、悪くない。 「・・・これでどうですか」  緊張気味の音が耳に届き、我に返る。  見上げると、夏川が書類を手に立っていた。 「あ・・・。ああ」  受け取り、几帳面な性格が表れている文書をざっと目視確認する。 「うん、悪くない」  むしろ想定外の出来だ。 「ありがとうございます」  時計の針は八時を回ったばかりだ。 「よし、とりあえず飯を食おう」  休憩室へ向かい、朝食の支度を始めることとした。  八澤の相棒の庄野がまだ巣籠解除にならない。  何か不測の事態が起きたのか、長くかかりそうだというのが宮坂の弁。  だが、仕事は全て進行中だ。  特に、『志水堂』の一件は待ったなしときている。  司法部門が空になってしまった時の対応を夏川に埋めてもらうため、急ピッチで引継ぎを行っている最中だ。  オフィスの電話が鳴らない早朝に出勤してもらい、指導のついでに一緒に朝食をとる。  それが定着してそろそろ一週間になる。  ちなみに蜂谷をいったん実家へ戻らせて、志水堂へ提供する可能性のあるさまざまな製品の総ざらいをしてもらっている。  本来は蜂谷社長への挨拶と商品の選定を自分がやるべきだろうが時間がない。  庄野の不在で空いた穴の大きさを痛感する。 「こういうパン、初めて見ました」  手に取ったパンの香りに、そばで夏川がくんと鼻を鳴らす。 「ああ、なんか酸っぱい匂いがするだろう。多分フランケンライブっていう名前だったと思う」  黒っぽくどっしりした塊にパン切ナイフを当てる。  前日、午後出社の同僚に買ってきてもらったドイツパンだ。  朝から力の付くものを食べないと、この事態はとても乗り切れない。 「片面にそこのバター塗って。で、粒マスタード嫌いじゃないならついでに重ねて」  今日のパンはライ麦の配合が多いのでトーストしない方が美味しい。そのままサンドイッチにするつもりだ。 「はい」  夏川が下準備してくれたパンにそれぞれ具を挟んで完成。  クリームチーズとトマト、そしてキュウリとパストラミのサンドを皿に盛りつける。 「今日は蜂谷がいないから、俺のコーヒーだ。悪いな」  八澤の方が珈琲店に関わった時間が長いにもかかわらず、コーヒーを淹れる腕は悔しいことに蜂谷に劣る。  まあ、バリスタを目指しているわけではないから仕方ないとため息をつく。 「いえ・・・。八澤さんのコーヒー、俺はすごく好きです。うまくは言えないけど、とてもおいしいです」  夏川は速攻で反論した。  だがしかし、表情筋と声帯は一ミリも動いていない。 無表情で無愛想なまま懸命に言葉を紡いでいる。  彼がお世辞のたぐいをとっさに言えない不器用だというのは、長年の付き合いでよく知っている。  この一週間。  夏川は飼い犬レベルに懐いてしまった。  じっと輝く忠実な瞳が眩しすぎる。 「・・・俺はいつか蜂谷に殺されるな」  どうしよう。  本気で可愛い。  なんだ、こいつ。めちゃくちゃヤバいだろう。  なんか、こう・・・。  頭から食べたくなる可愛いさだ。  八澤は天を仰ぐ。 間男ってこういうのか。 「八澤さんの志水堂へ出向は明後日からですか」 「そうだな・・・。昼には蜂谷が資料持ち帰ってくれるとして、それを検討して明日五郎社長のところへ俺が行って打ち合わせ、で、明後日・・・。明々後日に日延べしてくれたらもうちょい助かるんだけどな」  できることなら、万全の態勢で挑みたい。  先方にはスタッフの療養が伸びたためと断りは入れた。  その間、デザイナースタッフがネット展開の話を詰めに出向いてくれている。  そうやって日延べしながら、庄野の早期復帰に賭けている。 「今更だけど俺、本当にバース特性のことがよくわからなくて」 「ああ、庄野がアルファだっていうのも実はいまいちぴんとこないだろ」 「ええ・・・まあ・・・」 「俺もだよ」  この会社のメンバーはほとんどバース特性に絡んでいてこうやって時々『巣籠』に直面しても、ベータの八澤と夏川にはどうしても現実と思えない。  理由の一つは、目の前でアルファやオメガのヒートや交尾、フェロモンに巻き込まれた経験がないからだ。  巷では妖怪扱いにされているバース特性保持者。  彼らはいたって理性的で、有能だ。  それなのに、平凡な我々を見下すことはない。  むしろ、あちらが種の進化系だとみるべきだと八澤は思っている。 「あの、志村とかいうヤツみたいなのは逆に珍しいんだろうな・・・」 「・・・あの折は、本当にすみませんでした」 「いやもう時効だろう、あれは」  この会社のアルバイトとして出会った頃の夏川は、アルファの志村という男に恋をして、支配されていた。  夏川はベータ。  両親の先祖をさかのぼってみても、バース特性らしき人物はいない。  アルファとオメガとの関係ではなく、アルファとベータ。  男と男。  志村と言う男はゲイではなく、興味本位で夏川に手を出してそのままハマったらしい。  アルファの名家に生まれた男はたいてい、子孫を残すことに重きを置いている。  子が望めない夏川との関係など、論外だ。  性欲のはけ口として利用されていることは誰の目にも明らかだったが、本人が納得済みで尽くしているのだからどうにもならない。  ただ、時と場所を選ばない志村の呼び出しに学業も仕事も投げ出して応じていたため、夏川の全てが駄目になっていた。  そろそろ問題のアルファを締め上げるかと思い始めた矢先に、運よく上級オメガとのマッチングに成功した彼は意気揚々とアメリカへ飛んだ。  薄っぺらな別れの言葉一つを夏川に残して。  それからしばらく、夏川は呆然自失の状態で人形のようになってしまった。  普通に会話は成り立つ。  講義のノートはいつも通りにとっている。  だけど、それだけだ。  そんな時、八澤はふと思いついて夏川へ一冊のテキストを渡してみた。  それはペン習字。  ほどほどの集中力と観察力が必要なそれに取り組むうちに気がまぎれるのではないかと思ったからだ。  そして、夏川は自分を含め周囲が驚くほど自己否定の塊だった。  いつも申し送りのメモを渡すときなどに自筆の汚さを彼はいつも恥じていた。  彼の筆跡は丁寧で綺麗なほうだと思う。  だけど、本人は否定している。  なら、組み立て直してみるのはどうだろうと思いついた。  すると、夏川はそのテキストに没頭した。  子どものころはあまり理解できなかった字の形を分類し、線の引き方、ペンの持ち方、筆の入り方を少し修正するだけで、みるみる効果が出る。  楷書、行書、草書、そして筆ペン、書道。  コンプレックスをつぶしていくうちに、彼は習得することの楽しさを覚えた。  そして現在、夏川はオフィス宮坂随一の資格コレクターになった。  人づきあいが苦手で恥ずかしがり屋なのは相変わらずだが、もうそれはたいした弱点ではない。  むしろ、そのくらいでないと完璧すぎると最近思うようになった。 「あ、いたいた。志村は明日出社できるって。良かったね、晶」  宮坂がいきなり休憩室へ入るなり告げる。 「あ、おいしそう。ね、僕の分とかない?あるよね?」 「・・・なんか、虫の知らせってこんなんなんだな」  実は宮坂が乱入する可能性を考え、大目に材料を用意していた。  盛大なため息をつき、食べかけのパンを皿に戻して立ち上がろうとすると、夏川が慌てて押し止めた。 「あ、俺やります。さっきのでなんとなくわかったんで」 「うわ、瑛の手づくりご飯とか、僕、薫に殺されそう」 「・・・なんで皆さん、二言目には蜂谷に殺されるっていうんですかね」  心底不思議そうに首を傾けた後、夏川はサンドイッチ造りに没頭する。  独り暮らしが長いにもかかわらず、過保護な母親と蜂谷から世話をやかれっぱなしの夏川は、料理が不得手だ。  慣れない手つきでパンを切る姿はなんとも愛らしい。 「・・・本気で薫がかわいそうになってきた」  宮坂の呟きも、夏川には聞こえない。 「で、どういう展開なわけ。庄野は全力で仕事ができるのか」  とりあえず、保温ポットから先ほど淹れたコーヒーを宮坂の差し出すマグカップにそそぐ。 「それなんだけど」 「庄野自身は問題ないんだけどね。今回、彼の番が妊娠したから全力投球は無理かも」 「は?」 「これは、内々の話なんだと心に止めておいて欲しい。バース特性でもめったにない事象だから」 「・・・それはどういうことだ」 「実を言うと、庄野のパートナーはもともとアルファなんだよ」  そういえば、過去にはSWATに所属していたという絵にかいたような軍人だと聞いたような気がする。 「ところが庄野と出会って、オメガに変転した」  オメガは産む性だ。  こちらから見ると、男が女になったというに等しい。 「さっき夏川とも話してたんだけどさ。俺たちはバース特性について疎い。だから聞くけど、それってスタンダードなのか?」 「いや。稀だよ。だからめったにない事象だって言ったでしょ」 「あ・・・そういやそうだ」  宮坂は前置きしていた。 「三十半ばでばりばりアルファからオメガに変転しただけでも珍しいのに、妊娠したとなるとね。彼の身体が心配になるだろう」 「ベータの高齢出産みたいなものか」 「だね。すでにつわりが始まっているみたいだし。とりあえずバース関連の病院へ緊急入院って話だよ」 「うわ・・・気の毒・・・」 「そんなわけで瑛」  宮坂が振り向くと、皿を持った夏川が真剣なまなざしを返す。 「はい」 「近いうちに助っ人を必ず入れるけれど、忙しくなるよ」  庄野はしばらく時短業務で様子見状態、八澤は志水堂へ出向、夏川の仕事は法務へ舵を切り、庶務業務は蜂谷一人。 「承知しました」  もちろんもとからいる社員が補佐するにしても火の車だ。 「・・・ところでさ、瑛」 「はい」 「ほんっと可愛いね、きみ」 「は・・・?」  宮坂の前に置かれたサンドイッチは、パンもトマトも胡瓜も厚さがまちまちのとても豪快な出来栄えだ。しかし、不器用ながらも懸命にこしらえるさまを宮坂も八澤もじっくり見ただけに感慨深い。 「こんなに胸がきゅんきゅんするのは久々だよ」  本気なのかからかっているのか、よくわからないのが宮坂の怖いところだ。 「・・・っ。下手で・・・すみません」  かあっと全身を赤らめてうつむく夏川がいつもより身近で愛おしく感じる。 「どうしたもんだろうね、このギャップ」  繊細そうで武骨。  無愛想だけど照れ屋。  仕事中は察しが良いのに、自分には鈍感。 「なんなんだ・・・」  この、ときめきめいたものは。  サンドイッチを一口かじり、咀嚼しながら首をかしげた。  甘さが妙に残る。  なぜだろう。
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