感情学習

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感情学習

 僕には同居人がいる。同居「人」という表現が合っているのかは分からないが、少なくとも僕にとって彼女はそういう存在だ。  僕が彼女のことを人間だと言い切れないのにはある理由があった。  彼女の体は、全て僕が一から作成したのだ。彼女の煌びやかな黒髪から、細く色の白い指先までの全てが完全なる人工物である。  声は人間の声帯を忠実に再現した合成音声で、網膜や内臓器官もほとんど本物の人間と比べて遜色のない出来に仕上げた。基本エネルギーは人間と同じく食事で補い、当たり前のように彼女のボディの約六割は水分が占めている。  そして彼女の最大の特徴、僕が純度百パーセントの人工物である彼女のことを「人間」にする為に作り上げた最高傑作が「感情学習」である。  彼女の行動動機の基盤となるこのプログラムは、対人会話やテレビやラジオなどの音声、つい通りかかった人間の独り言、あらゆる自身の身の回りの情報を精密分析して、人間の最大の特徴である「感情」を完全学習することができるという品物だ。  つまり彼女は人に作られた存在でありながら、自身で思考し、喜怒哀楽を表現できる。ひいてはそれを応用することで話している相手の感情まで読み解くことが出来るのだ。  しかしそれでも尚、彼女は人間にはなり得ない。  彼女の学習過程が進むにつれ、通常の人間よりも遥かに高度な感情表現が可能となる。そうした学習を重ねていくことによって、ついには人の心を読むことまで容易に出来てしまうのだ。そこまで完璧な感情理解は、本家本元の人間にも絶対に不可能である。  「人間よりも人間らしくなり得る人型アンドロイド」これが現状、彼女を説明するのに一番簡潔で的確な文言だと言えるだろう。  僕は約一年半という月日をかけて、つい一昨日のこと、ようやく彼女を作り上げた。  いざ出来上がった彼女は、僕が描いていた完成像よりも遥かに人間らしい見た目をしていた。決死の想いで作り上げた最高傑作のかいもあって、まだ大した会話もしていないのにも関わらず、たかが二日間ほどで彼女は簡単な言葉を話せるようになった。  そして彼女の生誕から丸三日が経った今朝のこと、彼女は自室を抜け出して僕の隣で寝ていた。何度か肩を揺さぶってみても、目を瞑ったまま不機嫌そうに僕の手を跳ね除けはするものの、全く起きる気配は無かった。 「一体これはどういう学習の過程なんだ」  文句を漏らしたところで同居人は寝息を立てているままだった。ひとまず僕は彼女を起こすのを諦めて、歯を磨き顔を洗った。鏡に映った自分の顔は、もはや顔の一部となっているようなクマが目の下にくっきりと残っていて、とても日の元を歩けるような風貌ではなかった。  どのみち今日は、というよりしばらくは外を出歩く気分にはなれないだろう。僕は自分で作り上げた少女の学習過程の全てをこの目に焼き付けていたかった。 「……おはようございます、博士」  僕が本日一杯目のコーヒーをカップに注いだ頃、まだ開き切っていない目を擦りながら彼女は体を起こした。 「おはようココロ。良く眠れたみたいで何よりだ」  彼女を起動させるにあたって、僕はいくつかの記憶を先にプログラムとして入力しておいた。  まず、彼女にとって僕は「博士」という何よりも信頼のおける存在で、基本的に僕の言葉には従いたいと思うようにした。絶対命令こそ出来ないが、あれを取ってきてほしいなどの指示くらいであれば難なくすることが出来る。  要するに、ある程度の信頼関係さえあれば身の回りの家事など、雑務を任せられるということだ。  それと、名前という概念を口頭で説明するのが面倒だったので、彼女には自分の名前が「ココロ」であるということを生まれた瞬間から知覚できるようにした。  僕が彼女に手を加えたのはそれが最後だ。言葉などは勝手に学習してくれるだろうと安易に判断したが、それは間違っていなかったらしい。  今こうしている間にも、人間より遥かに早いスピードで彼女の学習は進んでいる。 「ところで、君の寝る場所はここだったかな?」  ココロは僕の問いかけの意味を数秒考えてから理解したらしく、申し訳なさそうな表情を浮かべた。 「すみません博士。昨日の夜、もう少し博士と一緒にいたいと思って……気づいた時にはもうここで寝ていました」  彼女の行動動機はどんどんと感情的になっている。経過は順調極まりないようだ。  僕は情けなさそうに顔を伏せている彼女に、コーヒー入りのカップを渡した。 「別に怒っているわけじゃないからいいんだ。ココロが何を思ってそうしたのか、それが聴きたかっただけだから」  彼女は僕の言葉に頷き、息を吹きかけて冷ましながらカップの中のコーヒーを口へ運んだ。 「じゃあまたここで寝ても良いんでしょうか」  控え目ではあるが、彼女はわがままのようなものを言うようになっていた。 「ああ、構わないよ。その代わり今度はちゃんと僕に声を掛けてからにしてくれ。起きた時、いきなり隣に君がいたらさすがに驚くからね」 「はい、分かりました」  彼女はもうコーヒーを飲み干したらしく、自分でキッチンまでそれを持って行った。そんなことはまだ教えていなかったが、僕を見て勝手に学習したのだろう。  彼女はそのまま蛇口を捻り、水でカップを洗い流した。水が打ち付けられる音が部屋に響く。自分ではなく、誰かが流した水の音が鼓膜を叩く。  かれこれ約五年間一人暮らしをしてきた僕にとって、耳の奥で響くようなその音は懐かしさを通り越して新鮮ですらあった。 「博士、今日は何を勉強するのですか」  カップを洗い終えた彼女は再度ベッドに腰掛けて、僕にそう訊いた。 「そうだな。今日は勉強じゃなくて、僕の個人的な訓練に付き合って貰いたいんだ」 「訓練……というのは?」  聞き馴染みのない言葉にココロは首をかしげる。 「人間が何かを克服するのに必要なことさ」  ココロの質問にそう答えながら、僕は彼女の右手を自分の両手で包みこんだ。 「え?」  彼女はあくまで客観的に僕と自分の手が重なっているのを見つめて、僕の行動の真意を考えているようだった。  彼女の手は、それが人工物だとはまるで感じられないほど暖かかく、手を当てていると微かに脈拍のようなものまで感じ取れた。それらも全て、僕自身がそう設計した結果にしか過ぎないが、自分の手の中に限りなく命に近い温もりがあることには違いなかった。 「案外平気なもんだな」  思わずそんなことを呟きながら、数度彼女の手を握ってみる。ふと自身の胸の鼓動を探ってみるが、特に変わった様子はなかった。 「博士」  ココロは右手を僕に預けながら、真っ直ぐな視線をこちらに向けていた。僕は思わず彼女の手を解放しながら、彼女の声に耳を傾けた。 「博士は、人間が苦手なのですね。だからご自身が人間に慣れる為の実験台として私を作った。そうでしょう?」
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