完全なる理解

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完全なる理解

 正直、僕は自分自身が作ったにも関わらず、「感情学習」については不明瞭な点が多かった。感情学習は、人間を嫌う僕が図らずも得た奇跡のようなプログラミングであり、よりにもよってそれは僕が人間の一番苦手な部分である「感情」を司るものだったからだ。  苦手を理解するというのは、なかなかどうして難解なものだ。  彼女に内蔵された「感情学習」は、あくまで機械的に、数字的に、科学的に自他全ての感情を理解していく。しかしその処理速度や精度に関しては、現時点で僕の手が及ぶ範囲外のことである。  そのことを頭ではわかっていても、いざ自分の根底に根付いた考えを予期せず読み取られると、さすがに気持ち悪さのようなものが込み上げてくる。  僕が人間嫌いであるということはほとんど隠そうともしていなかったとはいえ、僕はまだ彼女に一言も「彼女は僕の作り上げたサイボーグである」という事実に結びつけるような言葉を発していないのだ。  それももしかすると僕の思い込みに過ぎないのかもしれないが。  ともかく僕にとって今の彼女の発言は、動揺するにあたって充分すぎるものだった。 「驚いた。君は僕が思っていたよりも遥かに賢いみたいだ。うん、概ね君の言う通りだよ。僕は人間が嫌いで、君は……」 「博士が作り上げた、人間の感情を学習するサイボーグ。ですよね?」  僕が言い終わらないうちに、ココロは声色一つ変えずにそう口を挟む。表情を見ても、そこには何の感情の揺れ動きもないようだった。 「ショックじゃないのかい?」  僕がしていいような質問ではない。そう口に出してから気づいた。 「それを言うのであれば、博士はご自身が人間であることがショックでは無いのですか?人間がお嫌いなのでしょう?」  まさか質問を質問で返されるとは思っておらず、少し遅れてから僕はそれに答えた。 「嫌いだよ。嫌いだけど今までそれに耐えられているということは、実のところ僕は自分が人間であることはむしろ幸運だと思っているからなんだと思う。明らかにこの世界は人間に優しく作られているからね。実に勝手なもんだろう」  僕は口ではそう言いながらも、その事に関しては半分開きなおっていた。自身の本心が分からず、喋っている自分がどこか遠くに感じる。  彼女の右手を解放し、飲み終えたコーヒーのカップを流しに持って行くと、ベッドに座ったままのココロの横に腰かけた。僕の体重が加わり、二人分の重さに順応してベットが軋む。 「こんなエゴイストに作られてしまった君が、心の底から不憫でならないよ」  そんな投げやりな同情を部屋に浮かべた僕は、空いた口に細巻きの葉巻を咥えて火をつけた。 「そうですか?私は博士に作っていただいたことを心の底から感謝していますよ」  ココロはそう言いながら、煙を外に逃がすために窓を開けた。隙間風で白のカーテンが膨らんで、僕達二人を包み込んだ。一瞬白に染まる世界で、朝日に照らされたココロは微かに笑みを浮かべていた。 「もし仮に私が人間として博士と出会っていたら、こんな風に博士とお話しすることも叶いませんから。私も私で、相当なエゴイストのようです」  今彼女が言っている言葉は全て、「感情学習」によるものだ。僕がどんな言葉を求めているかを学習して、適当な文章として並べ立てているだけなのだ。  それを分かっているからこそ、僕は彼女の言葉で目が覚めたりはしない。いや、むしろこの場合は、覚められないと言うべきか。  彼女がこれから先いくら僕の感情を学習して人間らしくなろうとも、僕にとって最良の言葉ばかりを口に出そうとも、きっと僕が彼女の言葉で改心することは無い。  結局のところ、僕は自力で人間嫌いを克服する他ないのだ。 「ありがとう。嬉しいよ」  僕は僕で、ここはこう言うべきだろうと思う台詞を吐いた。現時点でのココロの成長ぶりを見る限り、感情が欠如しているのは案外僕の方なのかもしれない。  僕は彼女の言う通り、人間が嫌いだ。人間の感情と、それに任せた言動が耐えられない。そんなものは総じて合理的ではないからだ。  不明瞭な行動原理で生きるより、いっそ全てを受動的に、時間の流れにあるがまま流され続ける方がよっぽど低エネルギーで有意義なものに思えてしまって仕方がない。  そんな僕が初めて恋をしたのは、一冊の本だった。  彼女は僕が生まれる前から、自宅の本棚に置かれていた、僕よりもずっと年上の女性だった。  彼女は何も語らなかったが、代わりに僕は彼女の全てを知ることができた。全部で二百三十四ページの彼女のことを、僕は何十時間という時間を費やして完全に理解した。  完全なる理解を持ってして、僕の恋は初めて成就する。  自分の言動には何一つ介入されず、逆にこちらは彼女を成す情報の全てを掌握できるという全能感に僕の心は満たされたのだ。  その後、幼い頃に履き潰したスニーカー、何一つまともに電波を拾わないラジオ、運動も出来ないくせに一目惚れしたスケートボード、興味本位で開いたどこかの科学者の自伝、数え切れないほどの無機物に僕は恋をしてきた。そしてその度、命を削るような思いで彼女達の全てを理解し尽くした。  その恋愛の過程で得た知識のおかげで、今現在僕は科学者として国から生活の全てを保証されている。  皮肉なもので、この社会不適正な人間の作る物が案外、この社会の礎になったりするらしい。だが、三十年余りかけて未だ人間にすら適合出来ていない僕に、それを実感できる機会は今のところないだろう。 「博士は今、過去の恋愛について考えていらっしゃいましたか?」  僕が呆けていたのはほんの一瞬のはずだったが、感情学習はそんな一瞬の間でさえ無慈悲に分析してしまうらしい。 「まあね」 「博士は私と出会う以前はどのような方だったのですか?私はぜひ、その話をお聞きしたいのです」  間髪入れずにココロは僕を問いただす。まだ彼女は人に遠慮する言動を学習してはいないらしい。 「話さなくても君ならそのうち察しがつくさ」  彼女ではなく彼女に搭載されたプログラムが、というのが本当は正しいのかもしれない。しかしそう言わないのがある種の優しさのようなものだと、僕は思い上がっている。 「そうですか。本当にそうであるならば、私はその時を待っていますね」  あまり僕が過去に介入されたがらないのを察したのか、単に僕の言葉を言葉通りの意味として素直に受け入れたのか、彼女の問いから逃避した僕には知る由もないようなことを考える。  そして僕は同時に、彼女の気遣いに対して吐き気がしそうな程の嫌悪感を覚えた。 「そうして貰えると助かるよ。昔話は得意じゃないんだ」  僕がココロに与えられるのは、知識と社会一般の常識くらいのものだ。その他の、僕自身を形成している歪なパーツ達は、相手が彼女じゃ無かったとしても全く語る必要のないことなのだ。 「ところで博士、訓練はもうおしまいでしょうか」  灰皿を僕に差し出しながらココロはそういった。 「そうだね、もう続ける意味もない」  自分の不甲斐なさを押しつぶすように、ろくに吸ってもいない葉巻をガラス製の灰皿に押し付けた。まだ小さい火が燻っていたが、別にそれ以上の執着はなかった。 「どうも僕は君が人間らしくなっていくのが耐えられないらしい」  僕は無責任にそう呟いてみる。 「博士は私に人間になって欲しいのですか?」 「完全な人間にはなって欲しくない。ただ、限りなく人間に近い存在にはなって欲しいと思っていた」  彼女にこんなことを言って、こんなことを求めて何になるのだろう。ただ単に、僕は自分の社会性を取り戻すための実験に失敗した。それだけの事じゃないか。  彼女は紛うことなき僕の被害者だ。しかしながら、僕には彼女を憐れむ程の人間性を有していない。 「それは……」  彼女はきっと、それは不可能だと言い掛けてやめた。こんな無価値に思えるやり取りの中でさえ、彼女は他人を気遣える心を有していた。 「いっそ僕がロボットになれたらどんなに楽だろうかと思うよ」  対して純正の人間であるはずの僕は、こうして自分の弱さを吐露しているだけだ。  ココロは僕の最低な皮肉には触れず、今更湧いてきた僅かな後ろめたさから、僕もそれ以上何かを言う気にはなれなかった。  沈黙が緩やかに流れる中、僕は心なしか重たくなった体をベッドに沈めた。レースのカーテンの隙間からは、嫌味に晴れた青空の一辺が見えた。静かに佇むだけの雲に何か意味を探してしまうくらいに、僕の思考は停滞していた。  ココロは黙ったまま、ベッドに腰掛けているようだった。離れていても、背中に彼女の体温を感じるような気がした。久々に独り言以外で言葉を扱ったせいなのか、僕にはそれがどこか鬱陶しく思えた。  いっそのこと彼女を解体してしまった方が、僕の精神状態は社会不適正というだけで、標準以下の数値で安定するのではないだろうか。  彼女を作ったのは僕自身の社会性を少しでも取り戻す為だったが、このままでは明日にでも、首にかかった麻縄に身を預けてしまいそうだ。  僕は彼女の言葉で改心こそしないものの、彼女の言動に垣間見える人間らしさに心を乱される。  しだいに僕よりも人間らしくなっていく彼女との生活は言わば遅効性の毒、緩やかな自殺のようなものなのだ。  この実験は失敗した。乱雑に散らかったような脳内で、僕はそう冷静に自身の計画に見切りをつけた。
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