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満たされる
どうやら僕は少し眠りすぎたようだった。部屋はすっかり真っ暗で、つけようと思っていた日記は開いたままベッドの隅に置き去りになっていた。
「……今何時だ?」
つい誰もいない空間にそんな事を尋ねてしまった。虚しさだけが僕に返答をする。
ココロの行動は、彼女の感情によって左右される。
僕の彼女に対しての言動を顧みれば、この現状は当然の結果だろう。もしかすると、もうココロはこの研究所にすらいないかもしれない。
枕元にあるスイッチを押し込み、部屋の電気をつけた。眠りすぎた反動からか視界は薄ぼんやりとしていて、喉は張り付くように乾き切っていた。
水を飲む為にリビングへ向かうと、そこには明かりが点いていた。
僕は、まだココロが研究所内にいたという事よりも、目の前の机に並んだ料理に驚きを隠せなかった。
「これ、君が作ったのか?」
僕の問いに、ココロは料理の手を止めてこちらを振り返る。
「おはようございます博士。お久しぶりですね」
彼女の言った「久しぶり」という言葉の意味が、僕には全く理解できなかった。
「おはよう。今何時か分かるかい」
「すみません。少し忙しいので、ご自分で見ていただけますか?」
確かにそうした方が合理的だ。僕はキッチンの長机に置いている電子時計を見た。
「なんだ、まだ二十時か。もう少し経ってると思ってたんだけど」
少なくとも僕の体感では、七・八時間は下らない程眠っていたような感覚だった。
「概算三十時間も眠っていらっしゃったのですから、睡眠は十二分に取れていると思いますよ」
「三十時間? それは何のことだ?」
「博士が今想像している二十時とは、恐らく今から二十四時間前の話だということです」
僕はココロの言葉に驚愕した。慌てて電子時計に表示されている日付を見て、彼女の言葉が事実通りであることを悟った。
にわかに信じられなかったが、これで先程感じた違和感に説明がついた。
「……待てよ、今日は国の連中が来る予定だったぞ」
「ああ、いらっしゃいましたよ。対応しておきました」
彼女はあまりにもあっけらかんとそう言った。
「対応?」
「博士はご不在だと伝えただけです。私は博士の愛人だということにしておきました」
ココロがつらつらと並べ立てる言葉に僕は頭を抱えた。もう少し、何か他の言い方があっただろう。
「皆さま口を揃えて、あの人が愛人を持つなんて珍しいと仰っていましたけど、そういう事なら後日また改めて来ると言われていました」
国の人間は僕が抱える精神障害を知らない。いや、突き詰めていけば興味がないのだ。彼等が求めているのは僕の作る化学兵器であって、僕自身では無いのだから。
「……まあいい。アイツらも意外と融通が効くんだな」
僕はそれ以上考えるのをやめて、所狭しと並んだココロの手料理の前に腰を下ろした。
昨日もろくに何も食べずにいたので、通算するとほぼ丸二日ぶりの食事に胃が張り切っているらしい。食べ物に備えて胃酸が生成され始め、きりきりと痛みすら感じた。口内には溺れそうなほどの唾液が分泌されている。
「どうぞ、先に召し上がっていただいてよろしいのですよ」
「待つよ。さすがに目の前で働いてくれている君を置いて食べ始めるような図々しさは持ち合わせて無いから」
反面、体の方は今にもココロの甘言に身を任せてしまいそうだった。
そんな僕の様子を察してか、ココロは少し早めに調理を切り上げて僕の正面の椅子に座った。
「お待たせしました。これで食べられますね」
こんな風に正面から彼女と向き合うのは、かなり久々なことのように思えた。
しかし今の僕はとにかく目の前の料理を胃袋に放り込むのに一生懸命で、彼女の顔をはっきりと眺めていたのはほんの数秒のことだった。
「博士、そんなに焦って食べなくても良いんですよ」
ほんの数秒だったが、彼女は確かに笑っていた。
「こんな美味しい料理は食べた事がないよ。これは比喩とかじゃなく、本当に」
僕が他人の作った料理を食べ、ましてやそれを褒めちぎるなんて、当の本人である僕を持ってしても予想がつかない出来事だった。
自分らしさなんてものを貫き通すには、あまりにも僕は満たされてしまっていたのだ。
「そういう事を言われると、もっと頑張らなければならなくなりましたね」
何の気なくそう言いながらも、ココロは少し恥ずかしがっているようだった。
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