異変

1/1
前へ
/11ページ
次へ

異変

 あの夜以降、彼女の献身的とも言える生活補助を受けながら、僕は以前と変わらない日々を少しだけ健常的に過ごしていた。  僕はすっかり自分の日常の中にココロが存在するという状況に適応していた。それどころか、半分はその存在に依存すらし始めていた。  そして気づけば、ちょうど彼女との生活が始まってから丸一ヶ月が経とうとしていた。  この日の朝は、少し冷えていた。まだ吐く息が視覚化する程ではないものの、数分前にココロのいなくなってしまった布団は既にその暖かさを失ってきていた。  一向に寝床から出る気は起こらず、痺れを切らせた彼女が起こしに戻ってくるまでの間、僕は悠々と惰眠を謳歌していた。しかし、それももうここまでのようだった。  起床を促す彼女の声を、僕は瞼の裏に感じた。 「博士、このままでは朝食が凍ってしまいますよ」  ココロは僕の体を軽く叩きながら、そんなふうに皮肉をいった。 「なるほど。ココロは知らないかも知れないけど、冷凍されたパンも案外悪くはないよ」  戯言を垂れる僕から布団が剥ぎ取られる。  唯一の防御壁を失った身体は冷え切った外気に晒されて、すぐに身が凍りつくような寒さが襲った。 「冷凍パンについては残念ですけど、リビングはあっためておきましたよ」  ココロはそう言い残してリビングに戻って行った。どうやら情状酌量の余地は無いらしい。  僕は寒さで縮こまった身体を何とか動かして、洗面所で顔を洗った。この寒さにも関わらず、蛇口のレバーは冷水に合わせてあった。彼女はどうやら顔面の感覚が鈍いらしい。  僕はレバーを赤いマークに合わせ、温水を口に含んで起きたてで気持ちの悪い口内をゆすいだ。  吐いた水に薄い血液が混ざってピンク色の液体が排水口に吸い込まれていく。  喉元に何かがせり上がってくるのを感じて咳き込むと、今度は何にも混ざっていない赤黒い血が口内を満たした。生臭い鉄の味に嗚咽が込み上げる。  僕は色がなくなるまで何度も口をゆすいでから、ココロが待つリビングに向かった。 「おはよう」 「おはようございます。今日は美味しい紅茶が届いたんですよ」  僕はそこで初めて、リビングに充満した紅茶の香りに意識を向けた。  部屋に閉じ込められた生温い空気を吸い込むと、どこか懐かしい匂いが鼻孔をくすぐった。  僕は彼女が注いでくれた朱色の紅茶を一口分控えめに喉に通した。 「うん、美味しいよ」  正直、あまり味を感じなかった。味覚までも衰えてきているらしい。  体に違和感を感じ始めたのは、ほんの一週間程前からだった。  吐血や食欲不振から始まり、ここ数日は何もしていなくても常に立ちくらみや目眩に悩まされている。  そして極め付けとして、僕は局所的な記憶障害も患っていることが分かった。  それはつい一昨日のこと。僕はあろうことか研究室の扉のパスワードを丸っきり忘れてしまっていることに気がついた。  何度打ち直しても、どれだけ熟考しても思い出せなかった。  あからさまに僕の脳は退化しているのだ。  人を殺す兵器ばかりを作っていたのだ。奇病を患う原因なんて腐る程思いつく。  僕は割合すんなりと、突きつけられた現実を受け入れた。  幸いな事に向こう半年間の依頼は既に消化済みだった為、国の連中にもしばらくの間、療養の為の長期休暇を申請することが出来た。  今までの僕であればどんな手段を使ってでも仕事を優先していただろうが、ココロのおかげで案外話が通る連中だということを知れたのが大きかった。 「博士、今日は何をしましょうか?」  正面のココロが無邪気にそう訊いてくる。  僕は予め、その回答を用意していた。 「君が前に観たがってた映画が今日届くはずだから二人で観よう。実は僕も少し気になってたんだ」  今すぐにでも吐き出してしまいたいような不快感を抑えてパンを齧った。  味を感じない分、手応えのない食感だけが浮き彫りになって、その違和感に顔を歪ませないよう一気に飲み込んだ。  こんなふうに気を張ったところで、ココロは僕の異変に気づいているだろうことは分かっていた。  しかしそれでも僕は、見栄を張らずにはいられなかった。 「今日も楽しい日になりそうですね」  全てを察した上でこんな風に僕との時間を愛おしんでくれる彼女の前で、たかが病気などに苦しんでいる時間はないのだ。  僕が医者にかからないのは、自分の終わりを察しているからだ。  形だけとはいえ一人の人間を作ったのだ。人体の仕組みについてはそこらの医者なんかよりもずっと理解しているつもりだ。  その知識を持ってして、僕は僕自身に終止符を打つ他ないことを悟ったのだ。  これは病気というより、終わりに向かっている僕に与えられた、最期の時間と言えるだろう。 「ああ、きっと楽しい一日になるよ」  だからこそ今は、こうして呑気に彼女との時間を食い潰すという、至上の贅沢を楽しむべきなのだ。
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加