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不完全な物語
彼女が観たがっていた映画は、案の定恋愛映画だった。
何となくタイトルとパッケージで察しはついていたが、よりにもよって僕が無意識的に避け続けていたジャンルのものばかりを、彼女は好むのだ。
至って凡庸的な日々を送る男が突然初恋の女性と出会い再び恋に落ちるが、再会した彼女は既に不治の病に侵されている。
話の大筋は、何度も何度も踏み倒されたテンプレートを更に踏襲したようなものだった。
ただこの映画の特徴は、何の前知識もない僕でも感じ取れる程顕著だった。
この映画は他の映画に比べて、登場人物の日常風景を描写した映像が異様な程に長い。
二人が過ごした期間はほんの二週間にも満たないような出来事だったが、観ているこちらとしてはその二週間を余すことなく観せられたような感覚だった。
何度も同じような会話をし、似通った料理を囲んで笑い合う。そんな非現実的にも思えるような模範的な現実を垂れ流しにされているようだった。
映画が終盤になるにつれて、二人の辿る結末を知る僕達にとって彼等の日常はどこか芝居じみてくる。実際彼等は役者として与えられた役を演じているのだから、そういった種類の感覚を覚えるのもごくごく自然なことに思えるが、その違和感は決してそんなものじゃなかった。
お互いがお互いの傷を舐め合うような時間。ヒロインは最期の日が来るまで、主人公の男に何も悟られないよう気丈に振る舞い続けていた。
それどころか、何も知らないはずの主人公でさえも、明日すら分からないヒロインの為に仮初めの日常を演じているように見えてくるのだ。
彼は最後の最後まで、最愛の彼女の手向けとして、何も変わらない時間を提供し続けていた。
気づくと僕は、画面に釘付けになっていた。それは、隣にいるはずのココロの存在が脳裏から離れてしまうほどに。
大方予想はついていたが、この物語は万に一つの奇跡など一つも起こらないままに幕を閉じた。
ヒロインの彼女は日に日に衰弱していき、病状を隠しきれなくなった。二人が再開してから一年が経った夜、主人公に病を告白した直後に息を引き取った。
そこで、物語も途切れていた。
物語と呼ぶには淡白で、あまりにも呆気ない幕切れだったが、僕はそのラストをすんなりと受け入れることができた。
この物語はあくまで二人の物語であって、双方のどちらかが欠けた時点でそれ以上を語るべきではないのだ。
不完全な物語は、不完全という意味で完結していたのだ。
「いい映画だったよ」
僕は頭の中にふと浮かんだ言葉を口にした。それは確かに、僕自身の言葉だったからだ。
「そうですね。よくある展開で、よくある結末ですけど、私はこの映画が好きなんです」
この映画をこのタイミングで観せるということは、やはり彼女は僕の病状に気づいているらしい。
「ああ。よくある展開でよくある結末だったけど、僕もこの映画が好きになった」
それ以上何も語らないように、核心に迫らないように僕はそういった。
すっかり氷の溶けたコーラは、喉を通してもただの水のようだった。
「私はまだこうしていたいです」
そういいながらココロは、僕の腕に彼女の両腕を絡ませて抱きしめた。味を感じなくなっても、他人の鼓動はこんなにも鮮明に感じられるものなのだろうか。
腕に伝わる弱拍は、秒針より少しゆっくりと、僕らの終わりを数えているようだった。
「参った。君がそう言うなら、僕はまだ死ねないな」
約束を取り付けるわけにはいかないが、僕の命があるうちはこう言い続けようと決めていた。
僕の腕を締め付ける力はより一層強くなり、彼女の鼓動は僕のものよりもずっと強く鳴り続けて僕を離さなかった。
僕は彼女に何かを言おうとしたが、突然の睡魔がそれを遮った。これもここ数日の間に起き始めた症状のうちの一つだ。
「ごめん。少しだけ眠るよ」
「はい、私も一緒に」
こうなってしまうと、歩くのもままならない。強烈な睡魔が視界も何かもかも霧がからせた。
ココロに手を引かれてベッドまで辿り着いた僕は、そのまま彼女の腕を引っ張ってベッドに引きずり込んだ。彼女は少し驚きながらも笑って、そのまま僕の隣に潜り込んだ。
「なあ」
「はい博士」
「ココロ」
「私はここにいますよ」
何の意味もなさない会話が、僕を安らかな眠りに誘う。
僕よりも高い音域で、少しだけ暖かい睡眠導入剤を摂取しながら今日も眠りにつけることを、僕は最期の日に愛おしく思えるような気がする。
それから、僕は夢を見た。これから先起こるだろう事象の夢を。
大量の血液を吐いて倒れる僕、慌てて近寄るココロ。
彼女は必死に僕に呼びかける。そしてこれから先二人が浪費するはずだった日々の話をして、死に向かう僕を呼び止めようとする。
僕は何も喋れなかった。そうするだけの気力も体力も無かった。
次第に身体から力が抜けて行き、告げたかった言葉も意識の靄に呑まれて消えていく。
僕はそこで、夢から覚めた。飛び起きた時、隣にココロがいなかった事はついていたという他ないだろう。
今にも口から飛び出そうなほどに心臓が高鳴って、過剰に血液を供給しているのが分かる。思わず大声を上げそうになる口を手で塞いで、呼吸を整える。
別に今更、死を恐れているわけではない。そんな資格なんて僕にはないのだから尚更のことだ。
ただ僕が恐ろしかったのは、ココロに何も告げられずに死んでいくことだった。
邪険に扱ったこともあるが、彼女には何度感謝してもしきれない。僕という人間が曲がりなりにも誰かに感謝しているということが既に、今までの僕にとっては天地が反転する程の変化と言えるだろうから。
僕は殆ど死んでいる脳で、彼女への最期の台詞を練り上げる。
しかしいざ考え始めると何も出てこない。自分の語彙力を恨んだが、もしかすると自分が言葉を忘れているだけなのかもしれないと思い至り、それも馬鹿馬鹿しくなってきた。
幸いなことに、普通の人間の人生三回分くらいの貯蓄はある。彼女にそれを遺せるだけでも、かなり気持ちは楽になった。
僕がいなくなったところで彼女が生活する上で困る事など皆無だろう。むしろ悠々自適な生活が待っているはずだ。
彼女にとって重荷にならないよう、これまでの感謝をつらつらを重ねている内に死んでいけばいい。自己満足だが、彼女にとってもそういう結末の方が割り切り易いだろう。
暗中模索の中、何となくの方向性が定まったところで僕は、ベッドに置かれた書き置きに気がついた。
『目が覚めたら、リビングへいらして下さい』
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