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抜け落ちた記憶
至ってシンプルな書き置きに従い、僕は覚束ない足取りでリビングへ向かった。
「おはようございます博士」
「おはよう。親切な書き置きをありがとう」
珍しく、まだ夕食の支度に取り掛かってはいないらしい。思っていたよりも早く目が覚めたのかと時計を確認すると、時刻は既に二十二時を回っていた。
「まだご飯を作ってないなんて珍しいね。あまり気分が乗らなかった?」
僕は立っているのが辛く、リビングにあるソファに腰を下ろした。
「作ったところで、もうまともに食べられないでしょう?」
ココロの言葉に一瞬驚く。あくまで彼女は気づかないふりを通すものだと思っていたからだ。
「博士、お聞きしたいことがあります」
ココロは僕の正面に立ち、何処か他人行儀にそういった。
「何だい」
「博士は自分のお名前を覚えていらっしゃいますか?」
予想すらしていない質問に困惑した。質問そのものというよりも、何故そんな質問をするのかという点に。
「覚えているも何も自分の名前なんだから、忘れる方がどうかしてる。僕の名前は……」
喉元まで出かけたはずのものが、それ以上出てこなかった。
「え……と。僕の名前は……名前は……」
何度も言い直そうとするが、ぼんやりとしたシルエットばかりが浮かび、核心には迫れない。
まさか僕は、ここ数日間の間にそんな事まで忘れ去ってしまったのか。
「それと、博士が地下室に幽閉した彼女の事は覚えていらっしゃいますか?」
僕はココロの言っている言葉の意味が全く理解できなかった。そもそもこの研究所に地下室があったという事さえ、今聞くまで忘れていたのだ。
「少し待ってくれ、彼女? それは誰だ?」
「別に分からないままでも構いません。それに関しては私がそう仕向けた事ですし、肝心の彼女ももういませんから」
次々とココロが語る不可思議な話に、僕の理解は追いつかなった。
「さっきから君は何の話をしているんだ。それは僕の話なのか? ただ単に僕が忘れてしまっているのか?」
「質問に質問で返すのは禁止ですよ」
「自分が身に覚えのない質問をされたら、訊き返したくもなるだろう」
「それでは博士、一度今までの話はリセットしましょう。忘れたことすらも忘れて無かったことにしましょう。そしてもう一度、私の話を聴いてください」
現時点で僕の頭は散々にとっ散らかってしまっているというのに、まだ彼女は何かを言うつもりらしい。
「博士は現在、何の病にも侵されてはいません」
あれだけ散らかっていた脳内が、ココロの一言を受け、一瞬で真っ白になった。
「君は一体なにを言っているんだ。どこも悪くない人間が血を吐くと思うかい?
あんなに美味しかった君の料理が、今じゃ何の味もしない粘土のように感じるんだ。割れそうな程の頭痛が常に続いているし、ただ息をしているだけで身体中が軋むように痛む。一体何の病気かは知らないが、自分の命が長くない事くらいは分かってるつもりだよ。それでも君は僕が何の病にも侵されていないだなんて台詞を吐けるのか」
僕は思わず声を荒げた。
溜め込んでいた何かが溢れ出したようだった。彼女の為にと隠していた事を彼女自身に否定された。それは今までに経験したことのない種類の胸の痛みで、僕の心を押さえつけていた錠を崩壊させるには十分過ぎた。
「言えますとも。私はあなたよりもあなたの事を知っていますから」
混乱し続ける僕に、ココロは何の抑揚もなくそう言った。
僕よりも僕のことを知っている?
たった一ヶ月前に起動したアンドロイドの君が?
「分からないな。それはどう言う意味だい?」
「私は博士が忘れてしまった、言わば空白の時間を知っています」
僕は日を重ねるごとに何かを忘れている。僕の抜け落ちた記憶の中に、ココロが覚えている事だって少なからずあるだろう。
それがどうした。と言いかけて、僕は何かに引っかかった。
曖昧なままにしていた疑問点が、ある仮定を用いることで一つに繋がるような予感がしたのだ。熟考の末に導き出されるような物ではない。まともな人間なら想像すらも出来ないような、とんでもない仮定の上に初めて僕の違和感は成り立った。
「いつからだ?」
僕は既に口から出した言葉に、どんな答えが返ってくるのかが恐ろしくて堪らなかった。
「……いつから僕は記憶を失っている?」
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