3.墓参(前)

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3.墓参(前)

 夕方、隆人が遅れてやってきた。仕事を片付けてきたらしい。  この夏鎮めの期間、加賀谷精機は休業だ。  他の大企業は海の日と合わせて早い夏休みを取るところも結構あるらしいが、加賀谷精機は一貫してこの儀式に合わせて七月の夏休みを一週間ほど取るという。  加えて八月半ばには、他の地域の出身者や取引先との関係で、旧盆に合わせた一週間ほどの休みもあるらしい。 「いいねぇ、大企業は。俺なんかサービス業だったから、他人様の休みの日がかき入れ時で大変だったのに」 「昔ながらの風習と、よその土地の風習をすりあわせた結果だ」  隆人がせかせかと答えた。 「さあ、時間がない。禊ぎに行くぞ」 「禊ぎ?」と遥は語尾を上げる。 「聞いてないぞ」 「ああ、言っていなかったかもしれないな。行くぞ」  遥は世話係たちと隆人に囲まれて、わけもわからないうちに屋敷の奥へ案内された。  奥に着くまでに、隆人からごく簡単に禊ぎの場と呼ばれる川と上流の滝の説明をされた。今回は中奥の禊ぎの場へ行くのだという。儀式に入ると最奥の禊ぎの場が使われるとも聞かされた。  禊ぎのための着替えるのに、隆人とは別室に通された。そこで、全裸の上に白の浴衣を着せつけられた。  突き当たりの戸口で世話係の碧の見送られ、外に出る。まだ空は薄明るい。遠くで水の落ちているらしい音が聞こえる。 「ここが中奥の禊ぎの場だ。浴衣を脱げ」 「今着たばかりなのに?」 「禊ぎは全裸だ。ここへの行き帰りのためだけに浴衣を着る。  時間がない。急げ」  急かされて、仕方なく浴衣を脱いだ。  隆人が手を取ってくれて、慌ただしく川の中に入る。 「頭まで川の水に沈むんだ」  隆人の言われるまま、頭の先まで水に浸かり、顔を出した。 「よし、それでいい」  再び隆人に手を引かれ、川岸に戻ることになった。  文句を言う暇も、祈りの言葉をつむぐ間もないほどの短時間の水浴びで、正直何が起きたのかよくわからない。  これが、遥の初めての禊ぎだった。  岸に上がると浴衣をまとい、帯を持って、先ほど着替えに使った部屋へ戻った。  体を拭かれ、髪を乾かされ、なんと虫よけを手足から首に塗られた。  その後、あれよあれよという間に着物を着せつけられた。  夏着物用の絽という生地でできているそうだ。普段の茶道の稽古などで着せつけられる着物は長着に羽織だけだったが、今日は袴まで。  紋は長着も羽織も鳳凰紋がついていて、これは遥が凰である証になるらしい。 「儀式のお参りになりますので略礼装をお召しいただきました」  俊介が羽織の紐を結んでくれている。  長襦袢から羽織に至るまで、いくら夏用の絽で統一してくれたといっても、着慣れていない遥には暑く感じられた。  隆人の仕度を待ちながらふうふう言っていたら、湊がうちわで扇いでくれた。 「ありがと、湊」 「恐れ入ります。古いお屋敷ですので天井が高いため、エアコンが効きにくいのでございましょう」  地球温暖化のせいか涼しかったこのあたりも夏が暑くなってきたのだと言う。もっと低地にいた虫――特に蚊が飛んでくるようになり、網戸のない窓を開けて涼を取りにくくなったそうだ。  隆人は今年の夏前、本邸のほぼ全室に一挙にエアコンをつけたという。それほど蚊にうんざりしていたらしい。  着付けの前の虫よけ塗布を考えれば、嫌い具合は徹底している。  ノックの音がして世話係同士のやりとりがあり、隆人が入ってきた。 「ほぉ、似合うじゃないか」  遥の半襟と足袋は当然白として、長着は男物とは思えない桜色と柿色を混ぜて薄めたような色、袴はやや淡めの深緑、羽織は紺だった。  隆人は絽の紫がかった淡い灰色の長着に羽織と袴は墨色で統一しているそうだ。紋は同じく鳳凰紋である。 「スーツみたいな気分で着たかったからな」  言われると白の半襟と灰の長着がワイシャツに見えてくる。 「さて、行くか」  隆人に従って部屋を後にした。  瑞光院では慶浄の出迎えがあり、挨拶もそこそこに坂を上った。  袴の方が長着のままより裾捌きが楽なのは助かった。  それにしても頂上にある加賀谷本家の墓は遠い。護衛を兼ねた桜木が足下をLEDの提灯で照らしてくれているが、今どこまで上ったのか、あとどのくらい上ればいいのかが判然としないのは正直つらかった。  腿がだいぶきつくなってきたところで隆人が「あと少しだ」とささやいてきた。遥の気持ちなどすべてお見通しだったらしい。 「上を見ろ」  顔を上げるとほてった頬を風が撫でていく。  頂上らしきところが明るく照らし出されていた。
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