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8.明けの禊ぎ(前)
肩を揺さぶられて目が覚めた。
「四時になる」
目をこすった。
「おはよ」
「おはよう」
羽根が触れるような軽い口づけが遥の目を覚ましてくれた。
本当に一晩中一緒だったのだと思うと、顔が熱くなる。
遥はベッドの端に腰をかけている隆人の背にしがみつき、もう一度言った。
「おはよう」
「目が覚めたか」
「うん」
隆人がインターフォンではなく、呼び鈴を鳴らした。すぐに寝室のドアがノックされた。
「入れ」
「おはよう存じます」
則之が入ってきた。
「明けの禊ぎのお時間にございます」
パジャマを普段着に着替えさせられた。
「滝行やるときの白い着物を着るんじゃないのか?」
隆人が答えてくれた。
「行衣には、最奥の禊ぎの場の出入り口側の禊ぎ備えの間で着替える。
それより、覚悟はできたのか?」
遥は肩をすくめた。
「やれって言われたら、やるしかないだろう?」
「いい心がけだ」
隆人が満足げに頬を撫でてきた。遥は笑みを返す。
鳳と凰が、遥の部屋を出る。
先導は樺沢碧で、隆人、遥と続き、則之、樺沢紫、諒と並んで廊下を歩いた。
途中に錠前のかけられた木戸があった。それを紫が外す。開けられた木戸をくぐった。全員が中へ入ると、今度は内側から錠前がかけられた。
ここからが最奥なのだ。
最奥は、ある意味別世界だった。
磨き抜かれた廊下は鏡のように足もとを映し、柱も上部に鳳凰らしき彫りが施されている。
行き止まりの手前で一行は止まった。
昨日の夕方の戸とは異なる突き当たり――最奥の禊ぎの場の出口の戸が廊下の灯りではっきり見えた。鳳凰らしい木彫が施されており、昨日の戸より明らかに格調高い。
振り返った碧が左手で袂を押さえた右手で、左右の襖を示した。
「鳳様はこちらでございます。凰様はこちらでございます」
遥はチラリと隆人を見送り、則之の開けた襖の中へ入った。則之が続き、最後に諒が入って襖を閉める。
閉まった途端に、言われずとも全裸になることにも慣れてきた。
今日着るのは行衣と呼ばれる、薄手の丈の長い肌着のようなものだった。
着換えを終えると襖の前に正座をした。則之が口早に耳打ちしてきた。
「滝行は慣れている者でも五分が限度です。初めてでいらっしゃるので、それよりは短いかと存じます。すべて鳳様のご指示どおりになさってください」
「わかった」
頷いたとき廊下から紫の声がした。
「鳳のおおとり様ご準備かないましてございます」
諒が答える。
「凰のおおとり様ご準備かないましてございます」
則之が戸を開ける。
隆人が部屋の前で待っていた。
「参ろうぞ、我が凰」
手を差し伸べられたのに手を重ねる。
「お導きのほどよろしくお願い存じます」
そして立ち上がり、隆人に続く。
この先は鳳と凰だけの領域だ。ちらっと後ろを見ると木戸を開ける碧以外の世話係が皆膝をついて頭を下げていた。
碧が木戸を横に引く。早朝の冷たい空気が滑り込んできた。
外は薄くもやがかかっていたが、もう十分に明るい。
隆人に手を取られて、水音の響く外へ出る。川に近づけば細かい水滴が宙を泳ぐのが見える。
この川は町を流れる大きな川の上流から加賀谷家の敷地内へ引き込み、更に本家用と分家、五家用に分けてあるものだと、昨日の慌ただしい禊ぎの際に説明された。
今朝、滝を明るい中で見ると、音こそどうどうと響いているが、決して大きくはないようだ。
手を放し、川沿いを滝の方へ進む。
「昨日簡単に説明したが、あの滝も引き込んだ川の水を使った人工的なものだ。
滝となすために屋敷を建てる土地は掘り下げたと古文書に遺されている。掘り出した土は上流に運び、護岸整備に使われたという」
「滝は崩れたりしないのか?」
「もともと細く水の流れていた岩場を選んで滝を築いたから土が崩れ落ちるような虞はない。
掘り下げたのは落差を大きくするためと、加賀谷一族の秘事を血縁の遠い民から隠す意味もある」
隆人が空を示した。
「敷地まわりを背の高い木や葉の豊かな笹竹を多く使って目隠しにしているだろう?」
苔のむした岩のところで、隆人が再び手を取ってくれた。
「その上、血縁的に加賀谷本家に遠ければ遠いほど、この屋敷から離れた場所に住むように決まっているからな」
遥は目を瞠った。
「今も?」
「今もこの本邸の周囲は分家の本邸が囲んでいる。その意味では昔と変わっていない」
「掘り下げたならこの屋敷に水が流れ込んで来ないか?」
遥が訊ねたら、隆人が立ち止まった。真面目な顔でのぞき込んでくる。
「何のための鳳と凰だ?」
はっとした。
「祈るのか?」
「そうだ。逆に水害が起きてしまうような鳳と凰ではどちらか、あるいは両方がすげ替えられてきたぞ」
確かに俊介もそう言っていた。
隆人が肩をすくめた。
「まあ、物理的に水害が起きにくいように屋敷内の川幅を広げたり、底を更に掘ったりはしてあるがな」
話の規模が大きすぎる。ただ加賀谷という家が、それだけの権力をこの地に持ち続けてきたということだけはわかる。
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