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この物語は、フィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
2012年の夏、御年70歳で総入れ歯の前川さんは、出勤して着替えた後すぐに喫煙室へ向かいタバコを吸った。それから、あくびをしながらこちらに歩いてきて、もう一方のパイプ椅子に腰を下ろした。
「はい、おはようさん」
「あ、おはようございます」
うだるような暑さの中、僕はタクシーにLPガスの燃料を入れるアルバイトをしていた。
前川さんと僕のほかにアルバイトは8人いた。1ヶ月前にシフトが配られ、勤務体制は早番が2人、遅番が2人、平日はそれに中番が1人加わるという形だった。今日は土曜日の早番だが、日によっては遅番や中番のときもある。
三十代のシングルマザーである翔子や、僕と同い年の人妻・かおりんと一緒に働くときは楽しかったが、前川さんと一緒になると、どうしても少し気が重くなった。
だからなのか、夜中に客を拾って走ったタクシーが燃料を入れに来るのを、二人で待っていると、スタンドの屋根からセミが落ちてきて、死んでいった。
今僕たちが座っている場所から数百メートル離れたところにある出入口は、ここのガス会社の建物が死角になっていて見えない。そのため、燃料を入れに来たタクシーがマンホールの上を通過する時にあがる音で、来たことを察知し、パイプ椅子から立ち上がってタクシーを出迎えた。
「オーラーイ! オーラーイ! はい、ストップ!」まず停止線に車を停めてもらいます。そして「いらっしゃいませ」と言って、安全のため運転手から車のキーを受け取ります。次にトランクを開けてもらって、トランクにまわり、中にあるLPガスのボンベのバルブを回したら、金具を引き、給油口を開け、もう一人がスタンドの長いホースの先に付けられた充填器具を取り上げてきて、開けられた給油口の突起物に向けて力いっぱい差し込み、カッチという音がなったら燃料を入れる。
タクシーは2つの給油機を挟んで左右に一台ずつ止まれるようになっていて、もう一台続けざまに入って来た時には、そんな具合に手分けしながらやり、同時に二台入ってきた時には、一人が一台をやる。
それと三、四十メートル離れたところに天然ガスのスタンドもあって、ゴミ収集車やコンビニのトラックなどが燃料を入れにやって来るんだけど、その時には、素早く僕か前川さんのどっちかが走って行って、燃料を充填する。
まあ、今日はそれほど忙しくなることはないけど、平日はけっこう大変だった。特に前川さんを含むベテランのオジサンとやる時には気をつかうわけよ。例えば「あ、ごめんなさい」とか「すみませんお願いします」とか、そんな言葉づかいで接しなきゃいけないわけだから、疲れるんだ、これが。わかるでしょ?
「あー、なんか疲れる」僕がふんぞり返りながら言うと、前川さんは言う。「どうした、具合でも悪いか?」
「なにも朝っぱらから、タクシーの運ちゃんも燃料入れに来なくてもいいのに」と言うと、前川さんに「おい、人生は全て自分持ちなんだぞ、自分が悪いんだよ。こんなところで働いているのも、結局は自分がいけないんだ」と言われちゃったりもする。
そして話しているうちに、また前川さんがタバコを吸いに喫煙室に向かい、タバコを吸って戻ってくると、すぐに話し始める。
「君はいいなあ」
僕は「何がいいんですか?」と声のトーンを落とした。
「いいじゃないか、君は」と前川さんが続けて「君、年はいくつだ?」と聞く。
「四十一です」
「そうか、四十一か」しばしの沈黙のあと、前川さんは「俺、最近夜寝ながらよ、自分が死んだ時のことを考えるんだよ。他人に迷惑かけないようにしないといけないからな。だから机の引き出しにいつも五万円入れておくんだよ」と話した。
「五万?」
「そう」と前川さんは言った。「死体見つけてくれた人に、少しでもと思って書いて入れとくんだけどな、でも、いつも使っちゃうんだよなぁ」
「使っちゃう?」
「うん。ソープに使っちゃうんだよ」息づかいも荒く前川さんはそう言って、胸のポケットやらお尻のポケットをあちこちまさぐってから「君は友達はいるのか?」と僕に聞いた。
「友達ですか?」僕はすました顔でそう呟いて、とにかくまだ朝の六時だったから適当にあしらっていた。
「うん。学生の頃の友達とかと、まだ付き合っているのか?」
年寄りって、ときどきそういうことを言いだすんだよ。だからめんどくさいから「昔の友達かあ、そんなの一人もいませんね。そもそも俺友達がいませんから」と僕は答えた。無視するわけにもいかないし。
前川さんは、ほら、これでジュースを飲め、と200円くれた。
「お前友達はいいぞー」と言った。
「そうですか?」
「うん。でなあ、学生の頃に付き合ってた友達と、社会に出てからできた友達って、何か違うんだよなぁ」
「まぁ、確かにそんな感じはしますけど……」
「学生の頃に付き合っていた友達っていうのはよう、利害関係がないんだよ。でも社会に出てからできた友達っていうのは、どこかで利害関係を求めているからなのかなあ、ちょっと違うんだよなぁ」
眩しそうに目を細めながら前川さんは何気なく話し、帽子を取ると、その髪は真っ白だった。前川さんは右手の指で無造作に白髪頭をかきあげながら物思いにふけっていた。まるで長年にわたって重大な秘密を心の内に抱えていて、それを掘り起こそうとしているかのようだった。その後、タクシーが燃料を入れに来るまでの間、前川さんはまたしばらくタバコを吸いに行き、吸わない僕は琥珀色の朝日に照らされたアスファルトをじっと見つめていた。
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