3/11
前へ
/12ページ
次へ
2013年の夏。僕はタクシーの燃料を入れるバイトを辞めた。前川さんは去年の夏が終わると、会社からバイトの若返りを図るためという理由で、他のベテランのおじさんたちと一緒に引退することになり、新しく入ってきた五人の新人と入れ替わるようにして辞めていった。 2014年の夏。僕は小説を書き始め、第28回小説すばる新人賞に応募した。 2015年の夏。立川の本屋で『小説すばる』を手に取り、ドキドキしながらページを開くと、一次選考通過作品の中に自分の名前はなかった。 思っていたよりはるかに辛く、しばらくこみ上げてくる悲しさを呑み込んで立ち尽くしていた。そしてその日の夜から、この小説を書き始めた。 というわけで続きを……。   1991年4月20日、新横浜の駅を出てニューホテルグランドに向かって歩いていると、歩道にはスーツを着てネクタイをきちんと締め、肩にバッグをかけた多くの若者が僕と同じ方向に向かって歩いていた。ホテルに近づくにつれてその数は増え、到着した時には入口が非常に混雑していた。その時まで気にしていなかったが、汚らしいジーンズに紺のブレザーを着てここに来ているのは自分だけだということに気づき、焦った。他の人たちは皆、ドレッシーなスーツを着ており、僕のような格好をしている者は一人もいなかったため、僕はいかにも場違いだった。 ひとまずエレベーターに乗るため、混み合った列に並んだ。ホテルの従業員やクロスロードのスタッフに誘導されながら、混雑したロビーを抜け、ようやく満員のエレベーターに乗り込むことができた。二十階の会場に着くと、三人掛けの長テーブルがいくつも並べられており、真ん中の席を空けて二人ずつ、前から順に座るよう指示された。 椅子を引く音や服を直す音、荷物を床に置く音が徐々に消え、会場は静まり返った。その時、マイクを手にした小太りで髭の男が前に現れ、その目が一同を見わたすと、挨拶を始めた。彼はマリオブラザーズのマリオに似ていた。 「えー、皆さん、おはようございます!」 「おはようござい……」という小声のざわめきが広がった。何十人かが挨拶をし、何十人かが微笑み、何十人かが頷いた。僕はただ見ていた。 「なんだ、元気がないなあ……」ふたたび「えー、皆さん、おはようございます!」 「おはようございます」 「おお、さっきよりも良くなったね。まあ、緊張してるんだよね、きっと、そりゃそうだよね、うん」 そう言って小太りで髭の男が会場の脇に立っているスタッフたちを見ながら笑うと、スタッフたちも微笑した。 「えー、私がクロスロードの専務をしております鷹田信一と言います。本来なら、私の父である代表取締役の鷹田一翔から挨拶をする予定でしたが、一週間ほど前に病気で倒れてしまい、どうしてもここに来ることができなくなってしまいました。ですので、私がこのように皆さんの前に立って挨拶させていただいております。うん。ですので、私も皆さんと同じように緊張しているんです。そういうことでいうと、ここにいる137名の皆さんと私も心境は同じというわけなんです。だから皆さんの気持ちがよくわかります。まあ、それはいいとして。こうして皆さんの前に立てることを光栄に思っています。とりあえず、挨拶はまあこの辺で終わりにして、次に私どもの会社クロスロードの説明を少ししておきたいと思います。クロスロードは、私の父、鷹田一翔が1976年にスタートさせた会社でありまして、数多くの若者が世界へ、まあ、世界と言ってもアメリカなんですけど、渡って行きました。さて、なぜアメリカかと言いますと、まず第一に、私の祖父がアメリカ人でした。それから、もう一つ、ここが一番重要なところなんですが、アメリカは世界の中心だったからなんです。そして、それは今も同じだと、私は思っています。でも、どうだろうなあ……、最近は少し押され気味なのかな……まあいいや、とにかく学ぶ舞台がアメリカなのです。建国216年目の歴史の浅い国ですが、国民ひとりひとりのパワーは計り知れないものがあり、私たちクロスロードは皆さまの目的達成のためのお手伝いをさせていただくわけです」 鷹田信一の話が終わると、会場の動きがあわただしくなった。スタッフたちが一斉に僕たちに用紙を手際よく配り始めた。 「えー、それでは皆さん、これよりテストを始めますので、鉛筆と消しゴムを机の上に出してください。それ以外のものはしまってください。あと、鉛筆を忘れた人はいますか? どのくらいいるのかな?」 「1、2、3、4……はい、わかりました。」 テストの用紙が配られ、中を覗くと、これがとんでもなかった。答えがわからないどころの話ではなく、そこに書かれている内容そのものがまるで意味不明だった。問題はすべて英語で書かれていたので、まったく読めなかった。しかし、他の連中はそんなことを全く気にせず、テストが始まるやいなや、それぞれ問題に目を通し、マークシートを次々と塗りつぶしていった。 僕は適当に塗りつぶし、終わるのをひたすら待ち続けた。リーディング、リスニング、ライティングのテストがようやく終わり、会場を出ると、大学ごとに集められ、カリフォルニアの大学に行く16人のメンバーたちと初めて顔を合わせたが、僕はあまり彼らを見ずに下を向いていた。 フロアは他の大学のメンバーたちもいて混雑していた。なにせ137人もいるので当然だ。その中で、カリフォルニアの大学のメンバーたちは静けさを保ち、スタッフから今晩泊まるホテルの部屋の鍵を受け取るために名前を呼ばれるのを待っていた。 そして騒々しい中で、一番最初に名前を呼ばれて出て行くと、僕と一緒に名前を呼ばれたのは武田という奴だった。 「じゃあこれが鍵ね。1時間後に地下一階で食事会があるから、遅れないように降りてきてください」と言われ、僕たちは一つの鍵を渡された。どうやら今晩は見知らぬ相手と同じ部屋に泊まることになっているらしい。武田はどことなく高みから相手を見下ろすような態度で、その鍵を受け取ると、「お前が大野? 俺たちの部屋は700号室だって」と僕に言った。そして、女の子に「千夏、俺は700号室ね」と告げると、荷物を持ってエレベーターに向かって歩き始めた。僕もそれに従って歩いていると、彼が年齢を聞いてきた。お互い19歳だった。 7階でエレベーターを降り、部屋に着いた武田は、景色がよく見える窓際のベッドにバッグを置いた。後から入った僕は、必然的にバスルーム脇のベッドにバッグを置いて座った。 「大野、俺シャワー浴びるから、もし千夏が来たらよろしくな」武田は着ているスーツを脱ぎ始めた。 「千夏って? さっきの子?」僕はそう聞いて、彼の様子を眺めた。 武田が「ああ」と言ってパンツ姿で鏡の前に立ち、腕の筋肉を盛り上げていた。映った自分の姿を誇らしげにじっと見つめていた。そして、鏡の前のキャビネットを使って腕立て伏せを二十回ほどした後、バスルームに入ってドアを閉めた。それから、さっきのテストはどうだったか僕に尋ねてきた。 この野郎、テストのことなんかよりも、早くシャワー浴びろよ! 食事会の前に俺もシャワーを浴びたいんだから、腕立て伏せなんかやってんじゃねーよバカ。バスルームのドアを見ながらそう心の中で罵ったが、ただ、こう言っただけだった。 「難しくて全然ダメだったよ」 いい終わると同時にいきなりそのドアがぱっと開いて、下半身にバスタオルを巻いた武田が相好を崩して出てきた。「全然ダメって、大野、お前それヤバいだろ」 「ホントだって、問題が英語で書かれてたから、あれじゃ解らないよ。それより、早くシャワー浴びてくれないと、俺が浴びられなくなっちゃうから、早く入ってよ」と僕は落ち着かない様子で言った。 「バカ、大野、お前はシャワーのことよりもテストの結果を心配しろ」と武田はからかうように言い、再びバスルームに入っていった。シャワーの音がようやく聞こえ始めたので、僕はほっと胸を撫で下ろした。 ベジータ……いや、武田のことを気にくわなかったかって? そうでもなかった。少しばかり見下されていたとはいえ、実を言うと、けっこう好きだった。   ベッドでぼんやり仰向けになっていると、20分ほどしてから、ドアにノックの音がした。ゆっくりと立ち上がり、部屋のドアを開けると、目の前に飛び込んできたのは、シックで落ち着いたピンク色のフォーマルなドレスに着替えたさっきの女の子だった。彼女は「すみません、武田さんは……」と部屋の中を覗き込んだ。 「今シャワー浴びてますけど……」と答えたが、つい彼女に見とれてしまい、そのまま立っていると、後ろから「おう、千夏。何やってんだ、入れよ」と武田の声が聞こえてきた。 千夏は僕を見つめ、僕がドアノブから手を放すのを待っていた。 「いいですか?」 「あ、はい」胸の谷間に気を取られながら僕が言うと、彼女は「お邪魔しまーす」と言って部屋に入ってきた。なかなか綺麗な子なので、恥ずかしくてうつむいていると、「どうした、大野? 」と武田が尋ねた。「そんなに今日のテストができなかったことが気になるのか?」 彼らは、スカッシュをするようなタイプで、どこか気後れを感じさせる雰囲気を持っていた。武田が千夏を僕に紹介する時、千夏はまるで僕をじっくり品定めするかのような視線を投げかけてきた。 その後、武田はワイシャツに腕を通し、シャツのボタンを一つ一つ留めていった。袖口のボタンを千夏に留めさせるその手つきは熟練しており、二人の付き合いが長いことを感じさせた。将来的には結婚するのだろうという予感が漂い、すでに夫婦のように見えていた。 「千夏、シャワー浴びたの?」 「うん。身体だけ浴びてきた」彼女は頷きながら、ゆっくりとベッドの縁に腰を下ろした。 僕は千夏のことが気になってしかたなかった。 「大野、そんなにくよくよするなって」 「え?何が?」 武田がネクタイを首にかけながら鏡に向かい、ドライヤーのスイッチを入れ、櫛で髪を整えながら「テストだよ。千夏からも言ってやってくれよ。コイツ、さっきからテストのことばっかり気にしてるんだよ」と鏡越しに言う。 テストなんてどうでもいいと思っていたが、千夏が「今日のテストは私も難しかったと思うよ」と励ましてくれたので、無理に笑った。 「よかったな、大野。千夏も難しかったって言ってるから、これで安心したろ」武田が一度振り向き、かすかな笑みを浮かべてから、ドライヤーのスイッチを切り、出来ばえをチェックした。 しばらくして、僕もシャワーを浴びなければならなかったので、自分から切り出した。 「そろそろ俺、シャワー浴びたいんだけど」 武田は「おおー、悪い、悪い」と謝っていた。 僕はバックからパンツと携帯用のスーパーマイルド・シャンプーとリンスを取り出し、二人が出ていくのを待った。 「食事会が終わったら、大野どうするの?」と、ネクタイを結びながら武田が聞いた。 「さあ……わからないけど」僕は肩をすくめた。 千夏にネクタイを直させながら、武田が「鍵はフロントに預けておいてくれよ」と言い、僕はベッドから立ち上がり、二人を部屋の外へ送り出したあと、慌ただしくシャワーを浴びて汗を流し、さっぱりしたところで食事会に向かったのを覚えている。
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加